錦影絵は江戸期のアニメ 大坂で発展、幻灯機使う芸能
大阪芸術大学教授、池田光恵
真っ暗闇の中に淡い光に縁取られた人物や風景が浮かび上がる。男が化け物から逃げ惑い、花びらが散り、風が舞い、雨が降り注ぐ。その場で語られる口上と音楽が相まって、幻想的な世界が作り上げられていく。「きれい」「どうやって動いているのだろう?」。観客のため息がスクリーン越しに聞こえる。
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幻灯師10人動いて表現
江戸時代、オランダから大坂に伝わった幻灯機を、日本人独特の発想で展開させ、アニメーションの原点ともいわれる「錦影絵(にしきかげえ)」。日本ならではの「間」や、何も写っていない部分の「闇」に、日本的な空間意識を感じられるのが魅力だ。
絵を映し出すのは「風呂(ふろ)」と呼ばれる木製幻灯機。縦横奥行きそれぞれ20~30センチの箱形をした風呂の前面に、ガラス板に彩色した縦横約5センチのスライド板「種板」をセットし、後方から電灯をあてて和紙のスクリーンに絵を映し出す。
オランダからもたらされた固定式の重い金属の幻灯機とは違い、軽い桐(きり)の箱を操ってキャラクターを動かし、芝居仕立てで見せる。人が抱えて自由に動き回ることができるため、複数のキャラクターや背景を同時に動かすことができる。スクリーンの裏では10人ほどの"演者"ともいえる幻灯師が、風呂を肩に提げ縦横無尽に移動する。
例えばお辞儀をする表現するとしよう。正面を向いた顔の絵と頭を下げた絵の2つの絵をガラス板に描き、それを左右にずらすことで動いているように見せる。風呂を操る幻灯師は、あらかじめ複数の種板を準備しておき、物語の進行に合わせてセットする。
風呂の操作ができても幻灯師としてはまだ道半ば。感情表現は一筋縄ではいかない。喜怒哀楽に驚きや恐怖、運ぶ物の軽重までも微細な動きで表現しなければならない。物語に合わせて、登場人物の気持ちに添うように動かす繊細な技量は、練習を重ねなければ磨けない。その苦労は昔も今も変わらないものだろう。
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演目創作、英米で公演
錦影絵が確認できる最古の書物は、1779年(安永8年)に大坂で刊行された手品の書「天狗(てんぐ)通」。「南蛮渡来の幻燈(げんとう)機模造品、和製木製幻燈『影絵眼鑑(めがね)』が眼鑑屋で売られ、その見世物が大坂難波新地で演じられ大評判になった」とある。
その後「娘道成寺」や「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」など話題の歌舞伎や浄瑠璃の名場面を錦影絵にアレンジして上演された。興行芸能としての地位を確立して以降は、常設小屋が各地にできた。明治維新以後もその人気は続いたが、昭和に入り映画が普及するにつれ廃れてしまった。
この幻の伝統芸能を復活させようと動き出したのは2004年のこと。錦影絵を日本アニメの原点として捉え直し、創造性と芸術性を再認識することを目的に、私が勤務する大阪芸術大学の学生と「錦影繪(え)池田組」を結成し、復元を始めた。
まずは少ない資料をもとに風呂の図面を起こした。風呂には光源を入れるため耐熱性に優れた桐材が最適なのだが、なかなか手に入らない。タンスを潰したりそうめんの箱を分解したりして調達した。種板の完成には1年かかった。初演は翌05年。お菊という女の幽霊が井戸から現れ、皿を数えて怨念を訴えるという怪談「番町皿屋敷」を学内で公演した。
これを皮切りに、回転する3つの花輪車が色鮮やかで美しい幻想世界を描き出す「花輪車」や、空き巣稼業の男が化け物の家に入り驚いて逃げ惑う「桜白浪憑依豆袋(さくらしらなみひょいとぶくろ)」などの演目を創作し、各地で公演を重ねた。
13年には英国、14、16年には米国で上演し、その歴史と池田組の活動についての講演もした。学生は何度も入れ替わったが、OB・OGが指導に来てくれるので技術は継承されてきた。
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闇の解釈に日本的意識
上演の度に思いを新たにするのは、光の当たらない部分の解釈だ。「闇」を「無」ではなく「気配」として捉えるのは、日本人独特の空間意識が働いているように思える。
闇は作品によって建物や部屋の空間、林や森の深遠、河や池の水面、はたまた時代そのものだったり、あの世とこの世だったりする。空間への意識を大切にしつつ、伝統的な表現方法を踏まえた新たな表現の可能性を、学生らと共に追求していきたい。
(いけだ・みつえ=大阪芸術大学教授)
[日本経済新聞朝刊2017年2月17日付]
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