アーティスト・池田学さん 再生と希望、ペンで描く
苦しみも喜びも重ねた「誕生」
縦3メートル、横4メートルの巨大な画面を前に、息をのむ。波に洗われ、激しく身をよじらせる老木。狂い咲く白やピンク、紫色の花々。アーティストの池田学が3年がかりで完成させたペン画の新作「誕生」だ。
顔を近づけると今度はその緻密な描写に目が離せなくなる。根元に漂着したがれきの合間で、米粒ほどの人間たちがうずくまったり、水やモノを運んだりしている。極細のペンでミリ単位の線を重ね、人間や鳥を白抜きし、カラーインクで色付け。下書きは一切なしのぶっつけ本番。丸1日かけて10センチ四方のスペースしか描き進められない。
米ウィスコンシン州のチェゼン美術館に招かれ、同地で暮らしながら仕上げた「誕生」は、佐賀市の佐賀県立美術館で開催中の個展で展示している。
「子供のころから細かく描くことが好きだった」と話す。「頭にイメージが浮かべば、あとは集中力もあまりいらない。会話しながらでも、音楽を聞きながらでも手を動かせる」。そんな言葉がにわかに信じられないほどのスケールの大きさが持ち味だ。東南アジアの苔(こけ)むした仏教遺跡、サンゴや海藻が覆い尽くす座礁したタンカー。マンガチックなユーモアをたたえたアニミズム的感性で、自然と文明のぶつかり合いのドラマを表現してきた。
「誕生」のテーマは「自然災害」。制作のきっかけは2011年の震災だったが、「描きだすのには葛藤もあった」という。08年、溶け出す氷と雪の斜面を描いた「予兆」を制作。ポップで楽しげな作品だが、震災後、津波を連想させると懸念する声が一部で挙がったのだ。思いがけない解釈に戸惑い、「しばらくは静かな絵ばかり描いた。自分の絵が人にどんな作用を及ぼすかを考えるようになった」と振り返る。
「誕生」には制作中に起きたさまざまな出来事が重ね合わされている。2人の娘の誕生、友人の死。自身もスキー事故で右肩を脱臼し、数カ月ペンを取ることができなくなった。画中のはがれた樹皮を修理する男たち、木々から延びる神経や骨のようなイメージに「再生」と「希望」の思いを託した。「大きな出来事だけでなく、嵐の日の雲の様子や人との会話など日々の印象や経験が絵に昇華されている」とも。この絵のとてつもない重量感は、3年間の時間の密度そのものだ。
これまで使ったことのない明るい色で描いた満開の花は、復興のシンボル。しかし、よく見れば、花びらの一部は仮設テントの形や放射能のハザードシンボルを模している。「遠目には幸福で美しいけれど、悲しく毒のあるモチーフが紛れ込んでいる。これから僕らはそういうものと共存していくのかもしれない。見せかけのハッピーエンドではなく、本当の回復、再生は何百年、何千年という単位で考えないといけないとも思う」
11年からカナダ、米国と外国暮らしが続く。海外の人からは「なぜこれを描いたのか」と繰り返し聞かれる。「アートは世の中に問題提起したり、新しい価値観を知らしめるという考え方が強い。僕もこれまで『なんとなく』と答えてましたが、描く理由を深く考えるようになりました」
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「重要なのは全体像」
少年時代は虫取りや魚釣りに熱中。学生時代は登山に明け暮れ、ロッククライミングやスキーが趣味のアウトドア派だ。「ふだんじっと絵を描いているので、体を動かさないとバランスがとれない。スポーツは生活と切り離せない」。自然に分け入り景色を眺めたり、崖を登りつつ岩肌を観察したりすることで「制作のアイデアもわく」という。
細密描写がクローズアップされることが多いが、「それだけを言われるのには違和感がある」そうだ。木の葉1枚、樹皮のしわ1本を克明に描き、ディテールを積み重ねていくのは、樹木をとりまく生態系そのものをとらえるプロセスなのだろう。「重要なのは全体像」と言い切る。
「誕生」を制作してみて、水の表現に興味がわいてきた。「情報満載の絵をやってきたが、水とか雲とか何もないものを描いてみたい」。マリンスポーツもお手の物と思いきや「海は怖い。山では息ができるけど水中ではできないし」と苦笑いした。
(編集委員 窪田直子)
[日本経済新聞夕刊2017年2月15日付]
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