佐賀平野にエッフェル塔 鋼の心で巨大レプリカ自作
馬場ボディー社長、馬場憲治
JR佐賀駅から車で約15分。見わたす限りに広がる佐賀平野に、突如として鉄塔が現れる。地元で「佐賀のエッフェル塔」と親しまれるこの塔は、廃材などの鉄板を使って私がつくった。高さは23メートル。パリの本物を14分の1サイズで再現した。
ほかにも零戦の機体やゴジラなど、作品は数え切れない。見聞きして感動したものは、つい自分の手でつくってみたくなる。本業の板金塗装の技術でどこまでできるか、挑戦する日々だ。
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たばこ渡しやり過ごす
初めてパリでエッフェル塔を見たのは20代半ば。何しろあんな大きな「芸術品」を見るのは生まれて初めてだ。技術力の高さと力強いデザインに心から憧れ、つくってみようと決意した。
数年後にドイツで車の塗装技術を学ぶ機会に恵まれ、その時にエッフェル塔づくりの準備を兼ねてパリを再訪した。まず、塔全体をスケッチ。それから、ものさしを手に塔の計測を始めた。
まだ1970年代の話である。アジア人がいきなりエッフェル塔を測り始めたのだから、怪しまれるのも当然だろう。何をしているのか尋ねてくる人が後を絶たない。
あらかじめ「怪しい者ではありません」「エッフェル塔を測っています」などとフランス語で書いた紙を用意し、それを見せる。それでも引き下がらない人には「日本のたばこ」と言いながら、このために大量に持ち込んだ「ハイライト」を渡してやり過ごした。
帰国後、仕事の合間や休日などの空き時間を使い、制作に乗り出した。鋼材は同じように曲げたつもりでも、溶接後に冷えて縮むと、寸法が狂うことがある。1カ月かけてつくったパーツなのに、想定した通りに組み上がらなかったときは、また一からやり直しだ。
年末年始も遊び歩く同世代の友人を横目に、工場にこもって制作に励む日々。うまくいかないときは、寒さとつらさと自分の未熟さに涙がポロリと落ちた。それでも男の一念岩をも通す。ようやく82年に初代の塔を完成させたときには、制作開始から5年たっていた。
後日、噂を聞きつけて東京在住のフランス人が見学に来た。彼からエッフェル塔に改造計画があり、そのデザインでは塔が2本多かったと、設計図を見せてもらった。それならば、その計画に近づけたいと、2本の塔を付け加えた。その後も、気になる部分は少しずつ手を加え、これまでにエッフェル塔制作には約53トンの鉄鋼を使っている。
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零戦、父の思いと共に
実物大の零戦をつくったのは、高校の友人が「平和のシンボルとして、零戦を置かなければならない」と語ったのがきっかけだ。「そんなのつくれるわけがない」。その時は笑い話で済ませたが、その晩に布団の中で様々な思いがこみあげてきて、眠れなくなった。
私の父は、太平洋戦争の時に零戦の整備兵だった。父は敗戦で日本に引き揚げてくる時になって初めて、戦地で亡くなった兵士たちが二度と国に帰ることはできないと実感したのだという。生前、そうしたことを何度も語り、亡くなった人たちへの思いを深めていた。
そうした父の姿も頭に浮かび、翌朝一番に友人に「俺に零戦をつくらせてくれ」と電話した。父が持っていた設計図などを頼りに、2年かけて機体を再現。エンジンをかけるとプロペラがゆっくり回り翼が動く。映画の撮影にも使われている。
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真に迫るゴジラの火
子供たちを喜ばせようとつくったゴジラの模型は、当初は口に発煙筒を仕込んで火を噴いているように見せていたが、火の赤がきれいに見えるようにとアセチレンガスに変えた。それから、19世紀後半にパリの万国博覧会に出品された薩摩焼の花瓶「色絵金彩手桶形鉢」もどうしてもつくりたくなり、鉄で再現した。フォルムづくりから塗装まで、車の板金塗装で培った技術が生きている。
ここ数年は、1936年にパリから東京に向かっていた飛行家アンドレ・ジャピー氏が佐賀県の脊振山に墜落した時、命懸けで彼を救助した地元の人々の話を調べていて、なかなか鉄を使った作品づくりには取り組めずにいた。ジャピー氏の話は昨年、ようやく「脊振山の赤い翼」(佐賀新聞社)という本にまとめて一段落したところ。少し休んだら、また次の作品づくりに取りかかるつもりだ。
(ばば・けんじ=馬場ボディー社長)
[日本経済新聞朝刊2017年2月2日付]
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