わたしはこうして執事になった ロジーナ・ハリソン著
英国上流社会と使用人の世界
『おだまり、ローズ』で読者を喜ばせてくれた著者の2作目が、すぐれた翻訳で出た。本書は男性使用人の世界を、著者の聞き書きで生き生きと伝える。登場人物は5人の男性で、生い立ちもさまざまなら、性格、語り口も異なるし、生きた時代にも違いがある。
最初はゴードン・グリメット。労働者階級出身で、やんちゃな子供時代を送ったのち、男性使用人の世界に足を踏み入れる。20世紀初頭にお屋敷奉公をして、執事にならないまま商売の世界に転じてかなりの成功を収めた。その聞き書きは生き生きと元気溌剌(はつらつ)、上流階級および使用人の世界が真の意味で生きていた時代を彷彿(ほうふつ)とさせる。読んでいると、ゴードンの時代はお屋敷が会社で、使用人たちは社員だったのだと思えてくる。
だが、何といっても興味深いのは次に登場するエドウィン・リー。前作でローズが奥様と丁々発止のやりとりを展開したアスター家の執事だった人物である。それだけではなく、このリー氏こそ執事の鏡のような人物なのだ。著者曰(いわ)く、「リー氏の人生にはイギリス人のすぐれた面がふんだんに表われて」いる。激烈なアスター家の奥様でも「彼はまたとない宝物」だと断言しているのだ。名作『日の名残り』の執事スティーブンスかと思いきや、違った側面がうかがえるのも楽しい。
ほかの3人にも興味深い話題が満載で、読書の醍醐味をふんだんに味わわせてくれる。しかも耳にしたことがないようなエピソードが含まれているのも興味をそそる。ジョージ・ワシントンなる聞いたことのあるような名前。苦労の末に執事になった彼の回想にこんな話がある。ホランド・ハウスなる屋敷で働いたときのこと。「ホールボーイ」という仕事をしていた彼には役得があった。ワインの空き瓶とコルク栓を業者が買い取ってくれる。大した金額ではなくとも、第1次大戦後の不況下ではうれしい話だ。しかもヴィンテージ物のコルクとなると、引き取り値が跳ね上がる。一方、コルクを買い取った側はよからぬ連中に転売し、偽造ラベルが貼られた安酒の瓶の栓として使われる。
珍しい話題満載の本書だが、時代が進むにつれて、お屋敷の世界と使用人の世界にも大きな変化が訪れて、古き良き黄金時代が失われていく姿に一抹の寂しさを感じる。とはいえ、早朝から夜中まで働かされる使用人は大変なのだが、著者の聞き書きのうまさからか、明るく愉快な世界が展開されるのだから、読後感は楽しい。
(帝京大学教授 小林 章夫)
[日本経済新聞朝刊2017年1月22日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。