ナショナリズムの昭和 保阪正康著
上部構造と下部構造 探索の旅
昭和史は社会実験の事例に満ちている。あらゆる思想が試されたといってよい。たとえばナショナリズムは、昭和の歴史的な文脈において、どのような軌跡を描いたのか。本書は昭和史におけるナショナリズムの動態観察の記録である。
本書によればナショナリズムは「上部構造」と「下部構造」を持つ。「上部構造」とは国家の価値観としてのナショナリズム、「下部構造」とは共同体の価値観としてのナショナリズムを指す。ここでは上からの(あるいは下からの)ナショナリズムと言い換える。
本書の基本的な立場は、下からのナショナリズムの擁護=上からのナショナリズム批判である。下からのナショナリズムの擁護は著者の昭和史研究の原点に由来する。「軍国主義下のカルト集団」=「死のう団」事件と五・一五事件の取材調査は、国家に対する「不満を増大させた庶民の存在」と下からのナショナリズムの模範の発見をもたらす。著者は二つの事件の首謀者たちに感情移入する。
対する国家は国民を総力戦体制に動員して、ナショナリズムの一元化を進める。国家の下で一元化されたナショナリズムは、国益を守り、国権を伸長し、国威を発揚するどころか、帝国日本の崩壊をもたらす。国策を誤ったのは、組織利益を優先させた「ナショナリズムなき軍事指導者」だった。
敗戦後ナショナリズムは復活する。上からのナショナリズムと下からのナショナリズムを結び付けたのは昭和天皇である。「地味な背広姿」の天皇の全国巡幸は、天皇と国民の一体化によって、ナショナリズムを復活させた。戦後民主主義とは象徴天皇制の下での民主主義のことだった。
本書は「昭和の軍事主導体制下における『オモテ』の言論が簡単には死なず、日本社会の地下水脈を成していた」事実に注意を喚起して、戦前と戦後の連続性を強調する。三島(由紀夫)事件から安倍(晋三)首相の歴史認識に至るまで、そこには戦前から続く「地下水脈」が流れていた。
七百頁(ページ)余の大著である本書は、著者による昭和史探索の旅の集大成であると同時に、ナショナリズムの問題の大きさと複雑さを示唆している。探索の旅は道半ばである。昭和時代における下からのナショナリズムは、発展の可能性がありながら、なぜ挫折したのか。この残された疑問を解くことができれば、これからの日本は下からのナショナリズムに基づく新しい国家像を描けるようになるだろう。
(学習院大学学長 井上 寿一)
[日本経済新聞朝刊2017年1月22日付]
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