超新星ハンター、夜空に夢 日本人最多100個以上発見
アマチュア天文家、板垣公一
「少年が新すい星発見」。1963年1月。ある新聞の紙面に大見出しが躍った。しかも手作りの望遠鏡で見つけたというではないか。後に彗星(すいせい)ハンターとして有名になる静岡県のアマチュア天文家、池谷薫さん(当時19歳)の偉業を伝えるこの記事を見て、中学3年の私は「自分もやってみよう」と思ったのだ。
星ではなくレンズに興味を持ったのがそもそもの始まりだ。小学校の理科の授業でレンズに興味をもち、よく虫眼鏡で光を集めて黒い紙を焦がしておもしろがっていた。
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小遣いで望遠鏡レンズ
中学2年の時、ためたお小遣いで望遠鏡か顕微鏡か、どちらを買おうか迷った。顕微鏡を選んでいたら違った人生があったかもしれないが、当時の私は望遠鏡のレンズキットを購入した。ボール紙を丸めた手作りで、月や土星などを観測して楽しんでいた。そこに舞い込んできたのが池谷さんのニュースだった。
それからというもの彗星探しに没頭する日々が続いた。高校卒業後に就職し、給料をためてだんだんと高性能の望遠鏡をそろえていった。30歳を過ぎた頃、山形県の蔵王連峰の中腹に自前の観測所を作った。
36歳で親が創業した製菓会社「豆の板垣」の社長に就く。日中は働き、夜は観測所におもむき星を見つめ続ける。睡眠時間が1時間を切ることもざらだったが、"夜遊び"はやめられなかった。
とはいえ彗星を地元で観測するのは難しい。夕方や明け方のわずかな時間しか見られず、蔵王山などの山に阻まれることもしばしば。また、空が晴れなければ観測すらできないが、晴天が少ないのも大きな悩みだった。
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彗星の衝突を転機に
94年に起きたシューメーカー・レヴィ彗星の木星への衝突が転機となった。地球に彗星が衝突する危険を事前に知るため、米航空宇宙局(NASA)をはじめ世界中の公的な天文台や研究者が彗星探索に本腰を入れ始め、アマチュアが活躍できる場が狭まった。
これを機に、ターゲットを彗星から超新星へと変えた。超新星は星が一生の最後に大爆発して輝く現象で、昨夜まで何もなかった宇宙空間に、1億光年の距離を超えて突然出現するのが魅力だ。
そこから"超新星ハンター"として歩んできた。星の発見方法はきらびやかな超新星のイメージとは程遠く、とても地味だ。蔵王と数年前に設置した栃木県の観測所の望遠鏡で一晩に約2千枚の写真を撮影し、1枚ずつ以前撮った画像にはない光る点を探す。こうした作業を繰り返し、次々と超新星を発見してきた。その数は100個を超え日本人では最多だ。
たくさん見つけた星の中でも最も思い出深い出来事がある。2004年10月15日の夜明け近く、小さな銀河にかすかに光を増した天体を検出した。超新星の発見は、第三者による確認と国際天文学連合からの認定が必要となる。超新星だと思い国際天文学連合に発見の報告をしたものの、どこの天文台も望遠鏡を向けてくれず、10日ほどで完全に消えてしまった。
それでも同じ位置を確認し続け、丸2年がたとうという06年10月10日、いつものように撮影していると、とんでもなく明るい天体が見つかったのだ。国際天文学連合はこれを「超新星2006jc」と認定してくれた。1つの星で2種類の爆発が観測されたのは世界で初めてのことだといい、研究の対象ともなった。
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天文学の発展に貢献
星探しを続けて何よりもうれしいのは、アマチュアである私の発見が、プロの研究が進むきっかけを作り、天文学の発展に貢献できると感じられることだ。本業だけでは知り合えなかったこうした方々と交流できたことは大きな財産となった。
彗星発見に刺激を受けて星探しの道に入ってから半世紀あまり。始めた当初は寝ても覚めても「新彗星を見つけたい」という夢で頭がいっぱいだった。今考えると、どうしてあれほど夢中になれたのか不思議に思う。
若い頃から川や海、山々の四季の移り変わりを静かに見つめるのが好きだった私にとっては星を眺めることも同じ。いつもその先に新天体への見果てぬ夢を描いていた。その気持ちは70歳になる今も変わらない。近く岡山県に設置した3つ目の観測所も稼働を始める。これからも美しい自然を楽しみながら、星を追い続けたい。
(いたがき・こういち=アマチュア天文家)
[日本経済新聞朝刊2017年1月16日付]
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