山崎正和氏、劇作家活動に幕 「芝居らしさ貫けた」
評論家としても名高い劇作家、山崎正和氏が戯曲全集(3巻、河出書房新社)を出した。82歳、これで演劇の仕事に幕を引く。劇作家人生をふりかえり、自作を語ってもらった。
私はエドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」が昔から大好きです。大きな鼻の騎士が恋敵の手紙を代わりに書く。シラノは本来的に自分を見せるのが好きな役者です。役者が芝居らしさを楽しみ、お客もお芝居とわかって楽しむ、そんな演劇です。
舞台の世界越え
そうした演劇のための演劇はメタシアターと呼ばれます。実は日本には古い伝統がある。歌舞伎の「石切梶原」で役者が灯籠を切る。刀も刀、切り手も切り手と言うと「役者も役者」と声がかかる。観客は幸四郎なら幸四郎のお芝居を楽しんでいる。私の「世阿弥」では世阿弥が息子に「観客を憎め」と言い、観客を指さす。役者にはお芝居なんだと示して、舞台の世界をはみ出すわけです。
芝居屋になったのは偶然が偶然を呼んだから。京大を卒業して大学院に進むとき、時間ができた。ただ仕掛けだけで見せようと書いたのが「凍蝶(いてちょう)」で、子供が誰の子かわからなくなる男女の話でした。
演劇雑誌に投稿したら活字になり、京都でくるみ座という劇団を組織していた女優の毛利菊枝さんが上演してくれた。山本修二さんという京都大学の著名な英文学者がほめてくれた。舞い上がって3本続けて書いたら、評論家を集めた山本先生の十三夜会から、色紙だけの賞を頂きましたよ。
山本先生が旧制三高にいたときの教え子が森本薫で、私は間の離れた弟弟子です。毛利さんや森本薫の師だった岸田国士にもつながっています。ギリシャ哲学の大家、田中美知太郎先生とも縁ができ、ギリシャ悲劇の脚色を「オイディプス」で手がけました。
鑑賞団体の京都労演に頼まれ生誕600年の1963年に「世阿弥」を書いたら、事務局に来ていた俳優座の千田是也さんが台本をめくって「オレにくれ」。なんと千田さんの主演、演出で上演してくれた。
新劇の中で異端
私が演劇にかかわり始めた1950年代末の新劇(現代演劇)はロシアの演出家スタニスラフスキーのリアリズム演劇が中心です。舞台の人間は役者ではない、本当の人間だという近代演劇。これが20世紀前半の世界の演劇を支配した。政治的には日本共産党の影響が強かった。私の「世阿弥」も俳優座の中では思想性でもめたようです。
けれども千田さんは自由人でした。民衆の側にたつ世阿弥の息子が街頭で踊り狂い、未来は民衆の芸能になると言う。世阿弥は独裁者を予感し「(足利)義満になるなよ」と言いますが、千田さんは稽古中わざわざ「スターリンになるなよ」と言ったんですから。
私のメタシアターはリアリズムを重んじた新劇の中で異端だったし、その後のアングラ演劇からは保守的と憎まれた面がある。けれど出会いに恵まれ、時代とともにやりやすくなっていった。お芝居をお芝居として楽しんでもらいたい。その思いは貫けたと思う。なにしろ、最後の方の芝居の題名は「芝居」と「言葉」というんですから。(談)
明晰な論理、異彩放つ独立峰
とかく情緒的になりがちな日本の戯曲の中で、明晰(めいせき)な論理が魅力の山崎戯曲は異彩を放つ独立峰といえる。
1934年生まれ。満州(中国東北部)で国家の崩壊をみた少年は「絶対」を信じない劇作家となる。ものごとには相対するふたつの側面があり、競い合っているのが真相だ。緊張を保って生きる人間の精神のリズムをみよう。そうした態度を「劇的立場」と呼んだ。
代表作の「世阿弥」や「木像磔刑(もくぞうはりつけ)」。世阿弥と将軍義満、利休と秀吉を取り上げ、絶対者と芸術家の対比を浮き彫りにした。服従する芸術家は美の領域で勝利する。そんな芸術の衝動をとらえた。
時に難解といわれた。が、お芝居をお芝居として演じる術を身につけた歌舞伎役者が演じるとき、舞台は輝いた。この世は所詮お芝居……。山崎戯曲はそんな達観をたたえた大人の演劇だろう。
(編集委員 内田洋一)
[日本経済新聞夕刊2016年12月26日付]
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