狂うひと 梯久美子著『死の棘』の神話的解釈を解体

戦後文学史のなかに、異形の暗い輝きを帯びた傑作として語り継がれてきた、島尾敏雄の『死の棘』。この小説が抱え込んだ闇の深さに、あらためて息を呑(の)んだ。書くということはやはり、病であったのか。少なくとも業であることは否定しようもない。いくつかの意味合いできっと記念碑的な評伝となるはずの、この本の書き手こそが、書くことの業の深さに畏れおののきながら執筆していたのではなかったか。

(新潮社・3000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

島尾ミホへの未完に終わったインタビューから数年を経て、著者はミホその人を主人公にした評伝の執筆へと向かった。島尾敏雄とミホの消息を求めて取材を開始し、ミホの死後には二人が遺(のこ)した膨大な資料を読み込む作業に没頭する。そのはてに、『死の棘』をめぐる神話、すなわち吉本隆明らが作った、南島の高貴な巫女(みこ)の血を引く少女と、海の彼方(かなた)のヤマトからやって来たマレビトの男との天上的な恋の物語といった解釈は、実証的に解体される。その代わりに、はるかに人間臭い、地上的な「恋と死と文学」の絡み合いの光景が浮かび上がる。畏怖すべき覚悟と誠実さをもって、島尾はそれを描き抜いた。

それはしかも、幾人もの犠牲者を産み落としながら、あえてなされた私小説的な実験であった。妻や二人の子どもたち、そして、消された愛人。これはそれゆえ、それら犠牲者たちへの鎮魂の書でもあったのかもしれない。とりわけ、作中では「あいつ」と呼ばれ、名前すら知られずに来た愛人の女性の消息を追いつめてゆく場面は、壮絶である。

そうして、書く人/書かれる人をめぐる複雑怪奇なもつれ合いが、ゆるやかに浮き彫りになる。島尾が書く人として君臨していたはずだった。それが、書かれる人であった妻ミホが書く人へと転生を遂げたとき、自明性を奪われ瓦解してゆく。島尾は書かれる人へと反転される。そこに、島尾伸三という息子が書く人として参入する。さらに、膨大な書き残された文字の記録と、浮遊する記憶のかけらを縒(よ)り合わせながら、この評伝の作者がもう一人の書く人として参加してくる。いったい何が起こったのか。震撼(しんかん)させられる瞬間だ。

それにしても、ついに明らかにはならない、ミホを狂わせた十七文字とは何であったのか。古代的な声の力ではなく、書かれた文字の力がすべてを突き動かしている。そこに『死の棘』の謎を解く鍵が秘められている。そうして近代小説の極北が生まれた。

(学習院大学教授 赤坂 憲雄)

[日本経済新聞朝刊2016年12月18日付]

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

著者 : 梯 久美子
出版 : 新潮社
価格 : 3,240円 (税込み)

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