品川区に「涙橋」、荒川区に「泪橋」 その名の由来かつての刑場に向かう道中

正式には浜川橋という品川区の涙橋(左)と、荒川区の泪橋交差点
正式には浜川橋という品川区の涙橋(左)と、荒川区の泪橋交差点

東京都品川区の南部、東京湾に向かって流れる立会川に「涙橋」と呼ばれる橋が架かっている。その一風変わった名前の由来を調べてみると、もの悲しい歴史と、東京にかつてあったもうひとつの同じ名の橋の存在が浮かび上がってくる。

涙橋は京浜急行電鉄の立会川駅からすぐ、周辺住民が日常使う小さな橋だ。正式にはこの辺りの地名から採った浜川橋で、涙橋は通称。徳川家康が江戸に移った後の1600年ごろに造られたといい、昭和初期の1934年に架け替えられて今に至る。

涙橋の名が定着したのは1651年に東海道沿いに置かれた鈴ケ森刑場と関係がある。恋のために放火の罪を犯し、井原西鶴の「好色五人女」や歌舞伎で知られるようになった「八百屋お七」や徳川吉宗の落とし胤(だね)と称して世を騒がした山伏とされる「天一坊」らが処刑された場所だ。橋は刑場に向かう道中に位置していた。護送されてきた罪人をひそかに見送りに来た親族はここで涙を流しながら別れたといい、やがて橋も涙橋と呼ばれるようになったと伝わっている。

泪橋交差点近くのバス停にも「泪橋」の名が付いていた

刑場に向かう罪人が泣きながら橋を渡ったとかその姿を親族が涙ながらに見送ったとかいう逸話は荒川区南千住辺りにもある。こちらは日光街道沿いに置かれた小塚原刑場に向かう道中だ。JR南千住駅から南に向かい、明治通りとぶつかる交差点周辺には「泪橋(涙橋)」の地名が残っている。しかし橋の痕跡は見当たらない。荒川ふるさと文化館の野尻かおる館長に聞くと、江戸時代の「日光道中分間延絵図」には橋らしきものが描かれているという。橋が架かっていたのは思川。かつては明治通り沿いに流れていたが、その後に地下化が進められて姿を消した。橋はなくなったが、地名だけは存続した一例だ。

泪橋は一世を風靡したボクシング漫画「あしたのジョー」にも登場する。主人公の矢吹丈を教えた師匠の丹下段平が橋の下に「丹下拳闘クラブ」を構えていたのだ。作品発表当時にはすでに川も橋もなかったので架空の設定と思われるが、熱心なファンには知られたエピソードだ。泪橋周辺はかつて日雇い労働者の宿泊所が集まっていた場所だけに、野尻館長は「厳しい環境から懸命にはい上がろうとする主人公の姿と涙という言葉のイメージが作品と重なったのでしょう」と推測する。

涙橋の名、鹿児島や会津にも

立会川から涙橋(浜川橋)に向かう途中には坂本龍馬の像も

立会川周辺には江戸時代に土佐藩下屋敷があり、沿岸には砲台も設けられた。ペリーが来航した頃には剣術修行で江戸にいた坂本龍馬も警備に加わったという。京急の駅から涙橋に向かう途中には龍馬像が建つ。

東京以外にも刑場に送られる罪人との別れを由来とする涙橋の名はある。鹿児島の涙橋は西南戦争の戦場となり、福島・会津でも戊辰戦争の際に女性たちだけの部隊が新政府軍と奮闘した「涙橋の戦い」が有名だ。

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