ボーン・トゥ・ラン(上・下) ブルース・スプリングスティーン著
誤解や鬱にもがいた音楽人生
アメリカ大統領選の共和党候補として予備選に出馬したニュージャージー州知事クリス・クリスティは、ブルース・スプリングスティーンの熱烈なファンとして知られている。
子供のころから足繁(しげ)くライブに通い、ネット上のファンサイトにたびたび投稿していた彼は、州知事に就任した2010年に祝賀セレモニーへの出演を本人に依頼したものの断られてしまう。結局、クリスティは当日、コピーバンドの演奏に合わせて「明日なき暴走」を会場で熱唱したと伝えられている。
本書はアメリカを代表するロック・ミュージシャンの自伝であると同時に、第2次大戦後のアメリカ社会の軌跡でもある。
1949年、スプリングスティーンはニュージャージー州フリーホールドでアイルランド系とイタリア系の両親のもとに生まれる。父親はフォード社の工員、母親は秘書という典型的なブルーカラーの家庭で育った彼は、60年代に音楽活動を始め、75年のアルバム『明日なき暴走』のヒットで一躍スターの地位を確立する。
労働者階級の苦しみやもがきについて歌ってきた彼は、あるベトナム帰還兵との出会いをきっかけに政治的な活動にもコミットしはじめる。以来、彼は一貫してリベラルな立場を堅持してきたといえるだろう。
だが、その帰還兵の苦悩を歌った反戦歌「ボーン・イン・ザ・USA」がアメリカ賛歌として受け取られるなど、彼は常に保守派に誤解される存在でもあった。冒頭のクリスティの逸話に限らず、昔から共和党支持者の中にスプリングスティーンの信奉者は多い。
ベトナム戦争、レーガン政権、9.11、リーマン・ショック――本書はこうしたアメリカ社会の政治的変遷を背景に、ひとりの音楽家の人生を浮き彫りにする。ロック・ミュージシャンでありつつ結婚し、親になり、そして老いること。40年以上にわたって同じメンバーのバンドを維持すること。ひとり、またひとりと仲間を失うこと。さらに、生涯にわたる鬱との闘い――79の短い断章で構成される本書には、不器用に時代とともに歩んできた人間ならではの教訓があふれている。
「政治的な問題とは個人的な問題でもあり、その逆もまた真である」――ボブ・ディランから学んだ思想を受け継ぎつつ、スプリングスティーンはアメリカ人の魂に訴える歌を創り続けてきた。その、彼を支持するブルーカラーの人々は、今回の大統領選挙でいったい誰に投票したのだろうか。
(慶応大学教授 大和田 俊之)
[日本経済新聞朝刊2016年12月4日付]
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