籠の鸚鵡 辻原登著
男たちの破滅と南海への渇望
鴨長明の『発心集』に、補陀落(ふだらく)山寺から"フダラク渡り"をした僧のことが書かれている。「北風が強く吹く時を教えよ」といって、その日に小舟に帆をかけて南へと渡っていった。妻子は、それを泣いて見送った。別の僧の説話では、残された人々が足摺(あしず)りをして泣いたので、そこを足摺岬という。
紀伊半島の突端にある町役場の実直な出納室長が、巧(たく)まれた色仕掛けにかかり、町の金の着服、横領を強制される。不動産業者は登記書の不正につけこまれ、女房をヤクザに取られ、女は情婦(じょうふ)となって酒場の客をたらし込む。ヤクザは敵対組織の幹部のヒットマンとなるが、敵味方の両方から追われ、高野山に蟄居(ちっきょ)し、そして熊野の山中をさまよう。まるで小栗判官か修験僧かのように。
いずれも、自分の内なる欲望に負けて破滅の道を転げ落ちる。同情もできなければ、共感も共鳴もない。憐憫(れんびん)の余地さえも、ない。
犯罪小説であり、暗黒小説である。だが、そこに描かれているのは、性欲や金銭欲や支配欲というより、もっと激しい"何か"であると思える。人間存在の本質に根ざす悲劇といえるかもしれない。
しかし、そこにギリシア悲劇のような高貴さや、英雄的なものがあるわけではなく、ただ、登場人物たちの卑小さと猥雑(わいざつ)さがあるばかりだ。男も女も、欲望と汚濁と殺意と暴力に塗(まみ)れ、自滅してゆく。だが、奇妙なことに、南の海の外への渇望を無意識的に抱えている。"フダラク渡り"は、南の海にあるという観音浄土へ至ろうとする激しい情熱と狂気のような渇望にささえられている。それは、同時代の切支丹(キリシタン)宣教師の眼(め)から見れば、"クヮンヲン"という悪魔に魅入られた異教徒たちの自殺行としか見えなかった。
作者と同郷の作家・中上健次がしばしば紀伊の熊野修験や補陀落僧のことを書いた。しかし、この辻原流"紀伊物語"には、「遠くまで行くんだ」として、南海の果てへの"フダラク渡り"の、その後のことも書かれている。「(南の海からの)おみやげはなあに」「籠のオウム」。でも、このオウムは、たった一言しかしゃべらない、「いついつまでも」としか。
それは永遠の業苦のようなものだろうか。最後の、作品内では書かれざる第六の手紙には、こんな詩が引用されることだろう……。
また見つかった、何が、永遠が、海と溶け合う太陽が。(ランボオ作、小林秀雄訳)
(文芸評論家 川村 湊)
[日本経済新聞朝刊2016年11月13日付]
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