幻の「おんこ寿司」 志摩の漁師飯
塩魚のうまみ 白米包む
三重県志摩地方の郷土寿司(ずし)といえば、新鮮なカツオをしょうゆダレに漬け込んで酢飯に混ぜた「てこね寿司」が有名だが、もう一つ、地元で長く愛されてきた「おんこ寿司」がある。どちらも漁師飯が発祥といわれ、家庭の味として広まった。しかし、おんこ寿司は志摩でも若い世代にはあまり知られず、日常的に売っている店もない。幻のおんこ寿司を求めて発祥の地を訪れた。
「おんこ寿司は酢のご飯やのうてな、普通の白いご飯に、塩した魚を刺し身にして握りよったけどな」
志摩市和具(わぐ)に住む伊藤とも子さん(80)は3年前まで海に潜りアワビをとっていた海女さんだ。「うちは私のおじいさんがよく、おんこを作りよったな。漁師が沖へ、弁当のご飯を持って行くやろ。その時にとった魚で握ったのが始まりと違うんかいな」
志摩半島の南端、熊野灘をのぞむ和具は、沖合を黒潮が流れ、古くからカツオ漁が盛んな漁師町。夏には海女がアワビやサザエをとり、伊勢エビは全国トップクラスの水揚げを誇る。
そうした魚介が豊富な海辺の集落に伝わってきたのが、おんこ寿司だ。春先、近海モノの新鮮なカツオが浜に揚がれば、知り合いの漁師から分けてもらい、家庭でおんこ寿司を握る。イワシやアジなど、その時々の旬のものも使う。
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大勢の人が集まる冠婚葬祭の定番メニューでもあったらしい。「ごちそうというたら、寿司やけどな、酢のご飯ばかりだと飽きてしまう。そんな時には、おんこ寿司をしよった」と伊藤さん。しかし「おんこは子供の頃はよく食べたが、最近はあまりしない。てこねのほうが主になってくるもんな」
ぜひ一度、おんこ寿司を食べてみたい。願いをかなえてくれたのが、志摩市の民宿や飲食店の女将(おかみ)らでつくる「志摩いそぶえ会」のメンバーだ。郷土の食文化を継承しようと2003年に発足。てこね寿司、おんこ寿司など郷土料理のレシピをホームページで公開している。
9月中旬、和具の隣の集落、越賀(こしか)にある志摩市観光協会志摩案内所を訪問すると、エプロン姿の4人の女性が笑顔で出迎えてくれた。この日の魚はカツオ、アジ、イワシ、カマス。「釣れたてだったら、この黒い目の玉が上に飛び出しているんです。地元の人は目をみて魚を買うんです」。志摩いそぶえ会代表で民宿「べート・シャローム」を営む石原幸子さん(79)が教えてくれた。
アジは小アジの中でも少し大きめの15センチほど。頭を落とし、骨を抜き、たっぷり塩をする。カツオのサクは約5ミリ幅に薄く切る。小さなおむすび大に飯を握り、塩味の効いた切り身を載せて、さらに握る。「アジやイワシは手間がかかる分だけおいしい。春にはサクラダイ、冬にはブリ、新鮮なら、塩加減ひとつでどんな魚でもおいしく食べられます」と石原さん。
田んぼの少ない志摩では、かつては米は貴重品だった。おんこ寿司も昔は麦飯に塩だけを振って握ったというが、最近は白米の酢飯を使う。「米が普通に食べられるようになってから、おんこ寿司が減り、てこね寿司を作る機会が増えてきた。てこねは麦飯では作らない。たくさん作るには、てこねのほうが楽ですから」(石原さん)
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自慢の郷土料理を広くPRしようと、志摩いそぶえ会は5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の際、おんこ寿司などを使った「サミット弁当」を考案、警備関係者らに提供した。今後もイベントの度におんこ寿司を握り、その魅力を発信していくつもりだ。
「おんこはひと肌ぐらいの、ちょっとふわっとしたご飯が最高においしい」と民宿「松栄荘」の女将、山川真知子さん(62)。そう言われて、握りたてを口に運ぶ。しょうゆは付けない。塩と魚のうまみが口いっぱいに広がった。
地元の寿司屋でもメニューにないのなら、観光客はおんこ寿司を食べることはできないのだろうか。民宿を営む志摩いそぶえ会のメンバーからは「事前に要望を伝えてもらえれば、民宿の食事として提供しますよ」とうれしい返事。野趣あふれる郷土寿司。一度、味わってみる価値はある。
おんこ寿司の由来は、赤ちゃんをおんぶした姿を連想されることから「負ん児(おんこ)」になったいう説がある。志摩の郷土史に詳しい伊藤幸治さんは「旧暦10月の最初の亥(い)の日に、わらに赤飯を盛った『いんのこもち』を山の神の祠(ほこら)に備える風習があり、その『いんのこ』が転じたのでは」とみる。「すしミュージアム」の日比野光敏名誉館長は「船上で漁師が始めたというより、行事の際に皆で集まって食べる『集団膳』の中から生まれたのではないか」と推測している。
(津支局長 岡本憲明)
[日本経済新聞夕刊2016年10月18日付]
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