行動経済学の逆襲 リチャード・セイラー著
「ヒューマン」のエラー予測する学問
一昔前、ミクロ経済学を学んだ人は、合理的な経済人(「ホモエコノミカス」と呼ばれるが、著者は簡単に「エコン」と略称している)を仮定した制約付き最適化問題(例えば、予算制約内で消費者の効用を最大化すること)を演習問題で解かされた経験を持つに違いない。
頭の訓練にはよいが、実際の人間の行動を正確に記述してはいない。現実は「エコン」ではなく、「ヒューマン」の世界だからだ。こうした指摘は以前からあり、ハーバート・サイモンが「限定合理性」(複雑な問題を解く人間の認知能力の限界)の概念を提唱していたが、経済学のメーンストリームにただちに大きな影響を与えたわけではない。著者は、心理学出身のダニエル・カーネマンらの研究に導かれながらエコンの世界からヒューマンの世界、行動経済学の展開にかかわっていく。
こう書くと自然な流れのように聞こえるが、著者も回想するように、行動経済学の方向性に対しては、伝統的な経済学を擁護する側(ミルトン・フリードマンのような強力な論敵がいた)から「棒打ち刑」のような厳しい批判を浴びたらしい。ビジネス界も、実験、テスト、学習が大切という著者の主張に当初は耳を貸さなかった。
本書の冒頭には、「政治経済の基礎、そして社会科学全般の基礎は、まぎれもなく心理学にある。社会科学の法則を心理学の原理から演繹(えんえき)できるようになる日が、いつかきっと来るだろう」というパレートの言葉が引用されているが、パレートの『経済学提要』を読んでいる行動経済学者は少ないと思う。金融市場における行動的要因の役割を認識していたという意味でケインズを「行動ファイナンスの真の先駆者」と呼び、アダム・スミスのなかに、行動経済学の題材がいくつかあることも事実である。著者が古典を広く読んでいるのは好ましい。
著者を有名にした「ナッジ」の概念は、別のところに出てくる「選択アーキテクチャー」と言ったほうがわかりやすいかもしれない。発想はシンプルである。ヒューマンは予測可能なエラーをするので、エラーが発生する確率を減らすような政策を考案するというものだ。応用範囲の広い重要な概念である。
行動経済学の内容自体が知りたいなら、まず別の定評ある入門書を読んだほうがよい。だが、この分野がどのような経緯で生まれてきたかに関心のある方なら、一読して損をすることは決してない。啓蒙書としても水準の高い好著である。
(京都大学教授 根井 雅弘)
[日本経済新聞朝刊2016年9月11日付]
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