戦艦武蔵 一ノ瀬俊也著
個々の事実 精緻に積み上げる
「男たちの大和/YAMATO」(2005年)や「連合艦隊」(1981年)など、戦艦大和は戦後映画の中で多く扱われてきた。だが、同型艦の戦艦武蔵に焦点があてられることは少ない。レイテ沖海戦で「さしたる働きもできないまま」に沈められたことに理由を求めるむきもあろうが、それは、沖縄に向かう途中に沈んだ戦艦大和も同様である。では、なぜ、戦艦武蔵はかくも「地味」なのか。本書は、こうした問題関心から戦後日本の戦争観を捉え返す。
建造から沈没までを描いた前半では、「不沈艦」「艦隊決戦」といった虚構がいかに逆説的な帰結を導いたのかが描かれる。もっとも、著者はそれを戦後の後知恵で論評するのではなく、虚構が選び取られねばならなかった背景を精緻に浮かび上がらせる。それは、戦後を描いた後半にも引き継がれる。
戦艦武蔵を扱った戦後の著作としては、佐藤太郎『戦艦武蔵』(52年)や吉村昭『戦艦武蔵』(66年)、渡辺清『戦艦武蔵の最期』(71年)が知られる。これらは、大艦巨砲主義、国民の主体的な戦争協力、海軍の暴力や天皇の戦争責任といった問題を扱うものであったが、著者は、そのことがいかなる「真実」を創り出し、いかなる側面を削(そ)ぎ落としたのかを問いただす。
吉田満『戦艦大和ノ最期』(52年)との相違も興味深い。吉田はこの作品の中で、臼淵大尉に「敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ」と語らせ、乗員の死を崇高に描いた。これに対し、上記の武蔵物語は、戦時の歪(ゆが)みを扱いはしても、犠牲と献身の美談に行き着くものではない。
だが、冷戦終結以降になると、状況は変わってくる。上記の武蔵物語がよくも悪くも、何かの「真実」「教訓」を読み取ろうとしたのに対し、手塚正己「軍艦武蔵」(ドキュメンタリー映画・91年、単行本2003年)は、論評や評価を意図的に回避し、ひたすら「客観性」「事実の再現」に固執する。それは「戦争否定」とも「戦争賛美」とも異質だが、戦争の原因や責任を問うものではない。ことさらに「中立」「公正」が叫ばれ、どことなく議論がしづらい今日の状況にも、重なって見える。
戦争をめぐる「評価」には、さまざまな欲望がつきまとう。だが、それを手放し、「事実」のみに溺れることは、戦争の原因や責任の直視から「逃亡」することでもある。個々の事実を精緻に積み上げながら、戦争の全体像をいかに捉え返すのか。戦艦武蔵の戦後史は、この困難な、しかし避けてはならない課題を、現代に突き付けている。
(立命館大学教授 福間 良明)
[日本経済新聞朝刊2016年8月28日付]
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