評伝 春日井建 岡嶋憲治著
どこまで明かすか 迷いと揺れ
短歌はプロレスに似ている。
たとえば善玉のレスラーが、「悪役レスラーに凶器で膝をめった打ちにされ、病院送りになった」とする。実際にはこれは「慢性的に痛めていた膝を手術するため、予定通り入院した」のであり、悪役は既に悪かった膝を攻撃して見せたのだ。プロレスにはこのような変換がある。リング上で事件が起こるとき、リング外でも事件によく似た何かが起こっている。ファンは変換前の〈何か〉を想像しながら、リング上の戦いを楽しむ。
短歌も同じだ。短歌で事件が起こるとき、歌人の実生活にも〈何か〉が起こっている。春日井建は、三島由紀夫によって現代の藤原定家と称(たた)えられた、幻想的・劇的な作風の歌人だが、作品と実人生が無関係ではない。「どんなに虚構の先行する作品であっても(略)〈体験の核〉が顔をのぞかせ」ている、と岡嶋は言う。
〈倒れたる友をいだけるわが膝の重さ紺青の春夜なりけり〉〈幾年月おなじ姿態を持続して瀕死(ひんし)のゴール人は耐へゐる〉(「彫刻」より)
倒れた友の姿が、彫刻「瀕死のガリア人」になぞらえられる。この「倒れた友」には実在のモデルがいたという。当時治療法がなかったHIVに感染した、建の友人・ヒデオである。
建はヒデオの闘病に寄り添いながら、「友の病」をテーマに短歌を詠みつづける。建の弟子であり、ヒデオの病も知る岡嶋は揺れる。師の作品が評価されてほしい。ヒデオのプライバシーが作品から読み取られないでほしい。二つの思いに引き裂かれながら岡嶋は、建の作品と生活を見守りつづけた。
そんな優しい著者であるから、建の私生活を知りたい、という読者の好奇心は満足されない。評伝にしては控えめで、楽屋話は最低限だ。
だから読者はこの評伝から、春日井のドラマだけでなく、岡嶋のドラマをも読むことができる。師のプライバシーは暴きたくない。師の作品にどのような内的必然があったのか知ってほしい。どこまで書くか迷いながら書く岡嶋の、誠実な筆の揺れを読者は、はらはらしながら見守ることになるだろう。
ところで本書は、結社誌「井泉」の連載をまとめたものだ。建の死について書く予定だった最終回を前に、岡嶋は交通事故で急逝した。だから評伝は、未完のままに終わっている。
そしてわたしたちは幻の最終回を、最終回を前に岡嶋の心に起こっていた〈何か〉を、本書から想像することができる。
想像することしかできない。
(歌人 斉藤 斎藤)
[日本経済新聞朝刊2016年8月28日付]
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