ピチカート・ファイヴ初期2作 再発売
音楽家・小西康陽さん
膨大な過去の音源を聴き込み、引用やオマージュとして取り入れて新しい楽曲に再構築する。1990年代に大きな潮流となった「渋谷系」の手法を80年代後半にいち早く開拓し、ブームをけん引した。その方法論は中田ヤスタカ、ヒャダインら多くの後進に影響を与え、今や音楽制作のスタンダードの一つになった。
「ピチカート・ファイヴの80年代のアルバムは全然売れなかったのに、半年に1回まとまった注文がきて廃盤にならなかった。それが(渋谷系の発信地として知られる)HMV渋谷店」。90年代初頭、渋谷系ブームの前夜をそう振り返る。
サザンオールスターズを世に出した青山学院大学の音楽サークル「ベターデイズ」で出会った小西らがピチカートを結成したのが84年。デジタルシンセサイザーを中心にした「バンドというより作曲家チーム」は87年の初アルバム「カップルズ」で様相を一変する。
生楽器の演奏はスタジオミュージシャンに委ね、弦や管楽器のオーケストラが伴奏。バート・バカラック、ロジャー・ニコルズなど60~70年代のポップスや映画音楽を思わせるゴージャスでしゃれた演奏を繰り広げた。「60年代の洋楽に傾倒する僕の曲はバンドよりオーケストラが向いていると気付き、やりたかったことに近づいた」。陰影深いメロディーや歌詞、巧みな編曲といった小西の本領がクローズアップされる。
「僕の音楽知識は全てレコードから。ハープの音は知っていてもどう弾くかそれまで知らなかった。友人が担当したオーケストラの譜面に間違いが多く自分が書き直した。大変だったが、この録音でいろんなことを学んだ。至らない部分も多いが、現在までの自分が全てここにある」
その後、ボーカルの佐々木麻美子が脱退。オリジナル・ラブとして活動し始めた田島貴男を迎え、88年に2作目「ベリッシマ」を出す。当時はバンドブーム。「レコード会社がライブをやらないとダメというのでボーカルが代わった。でも僕の曲は小編成のバンドでは再現できない。レコードの演奏こそ最上と思っていたから、ライブは全く違う編曲で演奏していた」
これらのアルバムのセールスは当時振るわなかった。老舗の音楽専門誌が「仏作って魂入れず」と批判したのは語り草だ。「周りの人たちとは何かが違うと感じていた。他の人たちが今しか見ていない時に、自分はちょっと引いた視点から音楽を眺めていた」
趣味性が強く懐古的とみられたピチカート。90年代に入り、耳ざといファンが実は過去と未来をつなぐ音楽だと気付く。90年11月に開業したHMV渋谷店にはピチカートやフリッパーズ・ギター、オリジナル・ラブなどが並び、全国に「渋谷系」が波及していった。
「渋谷系という言葉を初めて聞いたのは91年。自分は流れの中にいただけ」と受け流す小西。ただ「ニートビーツというロックバンドが『僕らは次の世代に音楽を継承する中間点』と言っていたけれど、自分がやってきたこともそうなんだと思う」と力を込める。
「カップルズ」「ベリッシマ」は24日、CDとレコードで再発売される。
◇ ◇
自作自演こだわり強く
野宮真貴をボーカルに迎えた90年、ピチカートの快進撃が始まる。転調を重ねる小西の難曲をさらりと歌いこなし「スウィート・ソウル・レヴュー」などヒットを次々と飛ばした。「20代前半はなかなか曲が書けなかったけれど、野宮さんの声で、インスピレーションをすぐ形にできるようになった」と話す。
多くのアーティストに楽曲を提供してきた。「80年代後半、ネオGS(グループサウンズ)というブームがあった。作詞作曲家が書いた曲を歌うGSはクリエーティブじゃないという風潮があったが彼らは違った。僕もすごく共感した」と振り返る。専業作家としてのこだわりは強い。
もっとも原点は自作自演のシンガー・ソングライター。中学2年の時に見たジェイムス・テイラーのコンサートをきっかけに、ニール・ヤング、エリック・アンダーソンらを聴きあさった。「一度は自分が歌うアルバムを出したいけれど、自分向けの曲は全然書けなくて」と笑う。
(大阪・文化担当 多田明)
[日本経済新聞夕刊2016年8月17日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。