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ピチカート・ファイヴ初期2作 再発売 音楽家・小西康陽さん

2016/8/17付 日本経済新聞 夕刊

こにし・やすはる 1959年北海道生まれ、85年にピチカート・ファイヴでデビュー、2001年解散。文筆家、DJとしても活躍する。

 膨大な過去の音源を聴き込み、引用やオマージュとして取り入れて新しい楽曲に再構築する。1990年代に大きな潮流となった「渋谷系」の手法を80年代後半にいち早く開拓し、ブームをけん引した。その方法論は中田ヤスタカ、ヒャダインら多くの後進に影響を与え、今や音楽制作のスタンダードの一つになった。

 「ピチカート・ファイヴの80年代のアルバムは全然売れなかったのに、半年に1回まとまった注文がきて廃盤にならなかった。それが(渋谷系の発信地として知られる)HMV渋谷店」。90年代初頭、渋谷系ブームの前夜をそう振り返る。

 サザンオールスターズを世に出した青山学院大学の音楽サークル「ベターデイズ」で出会った小西らがピチカートを結成したのが84年。デジタルシンセサイザーを中心にした「バンドというより作曲家チーム」は87年の初アルバム「カップルズ」で様相を一変する。

 生楽器の演奏はスタジオミュージシャンに委ね、弦や管楽器のオーケストラが伴奏。バート・バカラック、ロジャー・ニコルズなど60~70年代のポップスや映画音楽を思わせるゴージャスでしゃれた演奏を繰り広げた。「60年代の洋楽に傾倒する僕の曲はバンドよりオーケストラが向いていると気付き、やりたかったことに近づいた」。陰影深いメロディーや歌詞、巧みな編曲といった小西の本領がクローズアップされる。

 「僕の音楽知識は全てレコードから。ハープの音は知っていてもどう弾くかそれまで知らなかった。友人が担当したオーケストラの譜面に間違いが多く自分が書き直した。大変だったが、この録音でいろんなことを学んだ。至らない部分も多いが、現在までの自分が全てここにある」

 その後、ボーカルの佐々木麻美子が脱退。オリジナル・ラブとして活動し始めた田島貴男を迎え、88年に2作目「ベリッシマ」を出す。当時はバンドブーム。「レコード会社がライブをやらないとダメというのでボーカルが代わった。でも僕の曲は小編成のバンドでは再現できない。レコードの演奏こそ最上と思っていたから、ライブは全く違う編曲で演奏していた」

 これらのアルバムのセールスは当時振るわなかった。老舗の音楽専門誌が「仏作って魂入れず」と批判したのは語り草だ。「周りの人たちとは何かが違うと感じていた。他の人たちが今しか見ていない時に、自分はちょっと引いた視点から音楽を眺めていた」

 趣味性が強く懐古的とみられたピチカート。90年代に入り、耳ざといファンが実は過去と未来をつなぐ音楽だと気付く。90年11月に開業したHMV渋谷店にはピチカートやフリッパーズ・ギター、オリジナル・ラブなどが並び、全国に「渋谷系」が波及していった。

 「渋谷系という言葉を初めて聞いたのは91年。自分は流れの中にいただけ」と受け流す小西。ただ「ニートビーツというロックバンドが『僕らは次の世代に音楽を継承する中間点』と言っていたけれど、自分がやってきたこともそうなんだと思う」と力を込める。

 「カップルズ」「ベリッシマ」は24日、CDとレコードで再発売される。

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■自作自演こだわり強く

 野宮真貴をボーカルに迎えた90年、ピチカートの快進撃が始まる。転調を重ねる小西の難曲をさらりと歌いこなし「スウィート・ソウル・レヴュー」などヒットを次々と飛ばした。「20代前半はなかなか曲が書けなかったけれど、野宮さんの声で、インスピレーションをすぐ形にできるようになった」と話す。

 多くのアーティストに楽曲を提供してきた。「80年代後半、ネオGS(グループサウンズ)というブームがあった。作詞作曲家が書いた曲を歌うGSはクリエーティブじゃないという風潮があったが彼らは違った。僕もすごく共感した」と振り返る。専業作家としてのこだわりは強い。

 もっとも原点は自作自演のシンガー・ソングライター。中学2年の時に見たジェイムス・テイラーのコンサートをきっかけに、ニール・ヤング、エリック・アンダーソンらを聴きあさった。「一度は自分が歌うアルバムを出したいけれど、自分向けの曲は全然書けなくて」と笑う。

(大阪・文化担当 多田明)

[日本経済新聞夕刊2016年8月17日付]

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