イエスの幼子時代 J・M・クッツェー著
哲学的寓話や言語 実験の文学
南アフリカ出身、現在オーストラリア在住のノーベル賞作家クッツェーの新作は、やや人工的なくらいシンプルな文体で書かれた哲学的寓話(ぐうわ)であると同時に、現代世界のあいまいさと不気味さをあぶりだす実験的な試みでもある。冒頭は、世界の政治情勢を踏まえた不条理な風刺小説のようにも読める。40代らしき中年男が、5歳くらいの男の子を連れて、海を越え、キャンプ生活を経て、ある町にやってくる。「難民」という言葉は使われていないのだが、大惨事か何らかの迫害を逃れて大勢の人々がここに来ているらしい。
しかし、彼らが具体的にどこから来たのか、過去に何があったのか、説明は一切ない。中年男と幼児はシモン、ダビードという新たな名前さえ与えられ、母語ではないスペイン語を習得し、過去から切り離された生活を始める。じつはこの2人は実の親子ではないのだが、シモンはダビードの父代わりとなって、生き別れになった男の子の母親を見つけようとする。
すべてがあいまいなまま展開し、どこの国の話なのか、いつの時代なのかも分からない。シモンは最初こそ理不尽な扱いを受けるものの、仕事も住居もすぐに得て、住んでみればそれなりの社会保障もあることが分かる。しかしなぜか人々には生気がなく、パンと水と豆だけの食事で充足している。つまり、表面的には架空の近未来のユートピアのようでいて、じつは恐ろしいディストピアらしいのだ。
人々に画一的な思考を強いるこの社会に、幼子ダビードは適応できない。彼には常識にとらわれないで本質を見抜く異常な知力があるからだ。彼と大人たちの会話は、深く哲学的でもあり、ばかばかしいほど滑稽でもある。そして実の母親のようにダビードを溺愛する女性イネスと代父役のシモンが、幼子を中心とする3人の疑似家族を作り、新生活を求めて町を脱出するところで小説は終わる。ダビードは果たして未来のイエス・キリストなのだろうか? 続編での展開に期待しよう。
いま世界には、作品を刊行すれば必ずほぼ同時に各国語に翻訳される人気作家がいるが(ミラン・クンデラ、カズオ・イシグロ、オルハン・パムク、村上春樹ら)、クッツェーもその一人。『イエスの幼子時代』はスペイン語の世界を英語で描いているというその成り立ちからいって、「生まれつき翻訳」という特異な性格をさらに強めているともいえる。現代世界文学の可能性を鮮やかに示す作品である。
(東京大学教授 沼野 充義)
[日本経済新聞朝刊2016年8月14日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。