47都道府県の球児たちの頂点を争う全国高校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園の時期が近づいてきた。東京都からは東西2校の代表を送り出す。しかしそもそも各府県1校なのに、なぜ、そしていつから東京は特例扱いを受けているのか。地理的な広がりから南北に分かれる北海道のような事情は思いつかない。都高校野球連盟に尋ねると、もともとは他県と同列で1校のみだったという。それが1974年から2校代表制となった。明治大学の名物監督で都高野連の副会長だった島岡吉郎氏らが日本高野連に熱心に働きかけて実現した。
背中を押したのは加盟校の増加だ。人口自体の伸びに加え、女子高が共学化して野球部を新設するケースも。そうして気がつけば200校に迫り、優勝するには最大8回戦を勝ち抜かなければならなくなっていた。「予選だけでへとへと。甲子園に着くころには力を使い果たした状態でかわいそうだった」。当時から都高野連で働く横山幸子さんはそう振り返る。決断には先見の明があった。加盟校は現在は270を超えており、区割りがなければ予選はさらに大変なことになっていた。
当初の分割は多摩地域と23区のうち練馬・中野・杉並・世田谷の4区が「西」、23区の残り19区と島しょ部が「東」。最初の74年の参加校は西が82校、東が92校となった。関係者はその後の東京勢の甲子園での活躍に胸をなで下ろした。「2校を出すからには、それなりの実力を示せなければ恥ずかしい」(横山さん)との思いがあったからだ。分割から2年後の76年には西代表の桜美林が頂点に。それ以降も東の帝京、西の日大三がそれぞれ2度の全国制覇を果たすなど実績を残した。
96年には世田谷区が「西」から「東」に移る区割り変更があった。高校の移転などで東西の加盟校数の不均衡が生じていたためだ。95年は西145校、東117校だったが、96年は西124校、東138校とほぼ釣り合いが取れるようになった。この年の東代表となった早稲田実業は決勝戦の国士舘を含め「新顔」の世田谷勢との試合が続き、ことごとく挑戦を退けて古豪の面目を保った。ちなみに早実は2001年に校舎の移転で「西」に移っている。区割りは13年に改めて再編。世田谷区が「西」に戻る一方、中野区が「東」に移った。
学生野球の聖地・神宮 変わる外苑の光景
夏の甲子園予選で東西の東京大会の決勝会場にもなる学生野球の聖地、神宮球場は1926年の完成。老朽化が進んでおり、2020年東京五輪後は神宮外苑の再整備にあわせて移転・改築される予定だ。
再整備を主導する都の計画によると、神宮球場は外苑内で秩父宮ラグビー場と互いに場所を入れ替える。スポーツファンが長く親しんできた外苑一帯の光景は様変わりする可能性がある。