高円寺阿波おどり「還暦」 変わる街でにぎわい創出冨澤武幸、NPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会事務局長

開催当初は本場とは似ても似つかぬものだった(1958年)
開催当初は本場とは似ても似つかぬものだった(1958年)

1957年に始まった東京・高円寺の阿波おどりが来月27、28日の開催で60回目を迎える。昔ながらの商店街が残る小さな街が毎年100万を超える人でにぎわう。私は高円寺で生まれ育ち、幼いころから参加し、変遷を見てきた。今は裏方として支えている。

高円寺で阿波おどりを始めたのは私の親の世代だ。空襲で焼け野原になってから10年ほどたち、街にもにぎわいが生まれつつあった。隣町の阿佐谷では七夕まつりが始まり、負けじとにぎやかな催しを開こうと考え出されたのが始まりだった。

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「ばかおどり」が始まり

最初はみこしを出すという意見が出たが、金銭的な余裕がなかった。盆踊りをしようにも高円寺の街は道が狭く、坂になっているため、適した場所がない。そこで浮上したのが歩きながら踊る阿波おどりだった。

もっとも、このときはまだ阿波おどりではなく「高円寺ばかおどり」という名称だった。当時は皆本場・徳島の阿波おどりを見たことがない。踊りは民舞の先生に習い、顔は白塗り、音楽は佐渡おけさ。本場とはかけ離れたものだった。

58年生まれの私にとって、最初の記憶は5回目、61年のことだ。幼い頃は踊るのが嫌で仕方なかった。鼻の頭におしろいを塗られ、よく分からぬ踊りをやらされるのが恥ずかしかった。小学校の高学年までは毎年、夏が来ると逃げ回っていた。

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存続の危機くり返す

振り返れば当時は、高円寺の阿波おどりが本格化していく端境期だった気がする。商店街の活性化のために始まったものが、阿波おどり自体の魅力にとりつかれる人が増えてきたのだ。いつまでも「ばかおどり」ではいけないと、東京在住の徳島出身者に習いに行き、さらには徳島に“留学”する人たちも出てきた。

60年代後半になると、観客は30万人近くまで増えた。踊りのグループである「連」も続々と誕生した。父たちが立ち上げ、私も連長を務めた「飛鳥連」の結成もこのころだ。250メートルだった演舞場も、どんどん拡大していった。今では総延長2400メートルになっている。

高円寺の阿波おどりは何度も存続の危機を迎えている。初期は警察との交通規制を巡る折衝があった。一商店街のイベントのために、道路をふさぐことはできないという警察に事務方が日参し、開催日直前になんとか1日だけ許可を得たこともあった。

商店街の中でも様々な意見があった。観客は踊りを見るのに夢中で売り上げがそれほど伸びるわけではない。費用や手間に比べ、商店街の活性化に貢献していないと主張する人たちも多かった。

バブル崩壊後はより問題は深刻になる。開催を支えてきた広告収入が減り、地場の商店もどんどん閉店した。テナントが増えたことで担い手が減り、協力が得にくくなった。街の変化に大きな影響を受けていた。踊り手をつとめるかたわら、運営を手伝っていた私は、そうした状況を何とかしなければと思っていた。

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NPO法人化し新体制

2005年に主催する東京高円寺阿波おどり振興協会をNPO法人化したのは、責任を明確にし、新たな体制で祭りを支えていくためだ。複数の商店街の寄せ集めだった組織を一本化し、予算をきちんと立てられるようにした。さらに、観客のために桟敷席を設置し、寄付金を募り、踊り手からも参加費を徴収した。街、観客、踊り手の三位一体で支え合うことを目指したものだ。

規模が大きくなる一方で、街は高齢化が進む。06年からは大学生を中心にしたボランティアを募り、ゴミの分別などを担ってもらっている。高円寺にゆかりのない外部の人たちの支えで今日、祭りは開催できている。

現在では、関東一円で同様の催しをする商店街がたくさんある。私たちが経験した失敗を伝え、協会所属の連を各地に派遣するなどしている。先輩方の努力と情熱で続いてきたノウハウが参考になればうれしい限りだ。

冨澤武幸さん

街の姿は大きく変わり、昔のようにはいかない。ただ、高円寺阿波おどりはそれでいい。もともと、商店街の一イベントにすぎなかったのだ。こうしなければいけないという決まりはない。

「ここがひのき舞台です」と語る踊り手、毎年足を運んでくださる人たち。商店街を超えて、人をつなぐ場になった阿波おどりを開催し続けられるよう守っていく。

(とみざわ・たけゆき=NPO法人東京高円寺阿波おどり振興協会事務局長)

[日本経済新聞朝刊2016年7月26日付]

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