ボクシングと大東亜 乗松優著
東洋選手権と日比の関係改善
ボクシングの名作ノンフィクションは国内外に数多(あまた)ある。古くから興行格闘技として市場が確立し、トップボクサーが巨大な富と名声を得ることができるこの世界は、勝者と敗者の社会的地位のコントラストが異様なまでに強く、だからこそ書き手たちの興味を引いてきた。しかし、そういった選手視点だけを描いた書とは一線を画したのが本書の比類なき凄(すご)みである。
著者は大きくカメラを引き、社会学者としてアジア全体の鳥瞰(ちょうかん)図をプレゼンする。その新たな史観は、日本とアジアの戦後を東洋選手権というボクシング史によって照射し直そうという強い決意が中心軸になっており、各章に澱(よど)みなく論が展開される。
大戦中、アジア解放の美名による大東亜共栄圏という概念に巻き込まれ、民間人も含め実に110万人以上の死者を出したフィリピンの日本に対する不信感は、戦後長く続いていた。一般には冷戦下のアメリカの動きが、日本のアジアへの復帰、そして各国の受け容(い)れを促したとされるが、著者はとくに日比関係においてはボクシングの東洋選手権が、政治に先んじて関係修復に貢献したという新たな視点を提示する。そしてそれを論証するために、人物たちの動きをスリリングに追っていく。
日本とフィリピン、双方のプロモーターの交錯から始まる物語は、実業家、右翼、政治家、ヤクザらへと進む。正力松太郎、児玉誉士夫、岸信介ら怪物たちの地下水脈だ。そこにはテレビ放送揺籃(ようらん)期の利権もあった。なにしろ東洋王座決定戦は1950年代に89試合、60年代に162試合も戦われ、最高視聴率は実に96.1%を記録しているのだ。国交断絶の50年代にも活発なボクシング交流があったことを著者は全体像として強調する。選手や指導者を詳説し始めるのは終章も近い第6章であることからも、本書の視点の斬新さがわかる。
著者はこれまでの史観を「全ての出来事を記録したアーカイブではなく、何を次の世代に語り継いでいくかについて取捨選択した結果」だと誤謬(ごびゅう)を指摘する。半世紀以上にわたって私たちが見てきた戦後ボクシングの景色は、この書の出現によって塗り変わった。今後、ボクシング史だけではなく、戦後史を語るうえでの必修資料の一つとなっていくだろう。
日本とフィリピンの国交正常化がようやく成ったのは東洋選手権が盛り上がっていた56年だ。終戦から11年経(た)っていた60年前の昨日、7月23日のことである。
(作家 増田 俊也)
[日本経済新聞朝刊2016年7月24日付]
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