尻尾と心臓 伊井直行著
「会社員」になることの意味
著者は数年前に『岩崎彌太郎』と『会社員とは何者か?』を上梓(じょうし)している。前者は三菱財閥の創業者の評伝で、副題は「『会社』の創造」。後者は「会社員小説をめぐって」という副題が附(ふ)された長編の文芸評論だった。本作は前二著を踏まえて書かれた「会社員小説」である。
物語の主人公は男女二人いる。乾紀実彦は、九州の食品問屋・商社「柿谷忠実堂」の中堅社員で、社長肝いりの新製品である営業補助GPSシステム〈セールス・アシスタンス・システム〉略称セルアシの運用実験のために東京の子会社「カキヤ」に出向してくる。笹島彩夏は、外資系経営コンサルタントから転身して柿谷忠実堂の子会社「インナー・パスポート社」に入社し、乾と同じくセルアシを扱うカキヤの新規事業室に配属される。カキヤは子会社でありながら忠実堂を上回るほどの利益を上げており、それは社長の岩佐の手腕によるところが大だとされていた。カキヤは本社の意向に従わず、なかば独立独歩の道を歩んでいる。実際、着任早々、乾と笹島はセルアシも自分たちもまったく歓迎されていないことを思い知らされるのだった……。
セルアシ(のちにカキヤ版は岩佐の鶴の一声でセルプロと改名される)の命運が話の縦糸だとすれば、カキヤという一見何の変哲もなさげな、だがどこか奇妙な会社の「正体」がじわじわと明らかになっていく過程が横糸と言えるだろう。関東に実家がありながら本社のある九州に妻と二人の子供を置いてきた乾、派手なキャリアから思うところあって今の職場に転職した、独身の笹島、二人は対照的な存在として描かれているが、そのどちらにとっても、カキヤと岩佐社長、そして社員たちは、それまでに見知ったことのない未知の何かを秘めている。その最たるものが、後半に明らかになる「メッセ」なのだが、それは読んでのお楽しみということで。
企業小説と呼ばれるジャンルがあるが、これは会社員小説である。ここには微妙だが決定的な違いがある。「会社」という不思議の国の住人となること、「会社員」であるということは、一体どういうことなのか? 著者は明確なメッセージを記しているわけではない。ただ、次のことは言える。ここで問われているのは、会社員とは何者であるのかという一般的な定義ではなく、個々人、すなわちそれぞれに異なった「自分」が「会社員」になるということの意味なのだ。これは普遍的なテーマである。なにしろ生まれてから一度も会社員であったことがない私が言うのだから間違いはない。
(批評家 佐々木 敦)
[日本経済新聞朝刊2016年7月24日付]
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