ツバキ・シャクヤク… 肥後六花、大きく咲かす
東海大学教授、田中孝幸
安楽庵策伝「百椿集(ひゃくちんしゅう)」(1630年)によると、江戸初期の1615年暮れからツバキの品種が増え、寛永年間(1624~45年)にはツバキが一大ブームとなった。関西の上流階級に始まったこのブームは1700年ごろから関東に移り、ツツジ、カエデ、サクラなども含め園芸ブームとして大衆化する。
江戸後期にはハナショウブ、変化アサガオなど草本植物だけでなく、斑(ふ)入り植物など日本独自の奇品文化が続き、幕末に日本を訪れたプラントハンター、ロバート・フォーチュンは母国の英国以上に日本で園芸が盛んだと驚いている。
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一重で大輪が特徴
将軍を巻き込むブームは地方にも飛び火し、肥後細川藩(現・熊本県)では6代藩主重賢(しげかた)(1721~85年)公が動植物の写生帖(ちょう)を10冊作ったほど無類の花好きだったという。その影響で肥後ツバキ、肥後シャクヤク、肥後ハナショウブ、肥後アサガオ、肥後ギク、肥後サザンカという「肥後六花」が生まれた。総じて一重で大輪、おしべが美しいのが特徴だ。
私は宮崎県の生まれ。小学5年のとき、親に買ってもらった顕微鏡でヤブツバキの葉を観察する楽しみを知り、九州大学、大学院で園芸を専攻した。1982年に熊本にキャンパスのある東海大学農学部に勤めて以来、肥後六花の起源・歴史を研究するとともに、学生と肥後ギク花壇などの栽培にも取り組んできた。
肥後ツバキは天保12年(1841年)、細川藩江戸屋敷があった白金の植木屋文助が持っていた12品種を熊本に持ち込んだのが始まり。起源はヤブツバキとユキツバキ間の雑種との説があった。しかし、両種の雑種は肥後ツバキとは大きく異なる。私は調査した肥後ツバキ約50品種のうち15品種が3組の染色体を持った三倍体であることや形質的特徴から、日本のヤブツバキと中国産のツバキ属植物間の雑種起源ではないかと考えている。
ボタンの台木に使われるように、全国的にみればシャクヤクの人気はボタンほどではない。しかし、肥後シャクヤクが肥後六花に含まれているように、熊本ではボタンよりシャクヤクが中心だ。
肥後ハナショウブが生まれたのも幕末。当時、江戸にはハナショウブの名花を次々育てた旗本、松平左金吾がいた。江戸に滞在していた細川藩士、吉田閏之助が左金吾のもとに1年間通い、一子相伝の約束で苗を入手した。それが肥後ハナショウブの起源とされる。
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一般と異なる栽培法
ハナショウブは水辺での地植えが多いが、肥後ハナショウブは鉢植えだ。地植えが一般的なツバキ、アサガオも「肥後」だと鉢植えとなる。逆に鉢植えで楽しむことが多いキクは地植えの花壇にするのが正式な栽培法だ。こうした変わった栽培法は「肥後もっこす」と呼ばれる妥協を許さない熊本県人の気質から生まれたように思う。
他の肥後六花と同様、肥後サザンカも原則は大輪一重で、品種「大錦」が一つの理想だ。しかし、肥後サザンカには例外的に八重咲きの品種も多い。サザンカの品種に八重咲きのものは少なく、江戸の名品と比べても勝っている品種が多かったため、捨てがたかったからではないかと思う。
肥後ギク栽培は、単に花を愛(め)でるだけでなく、赤、白、黄の花を使い、前列に小輪、中列に中輪、後列に大輪を置いた花壇を作ることで、天、地、人の三位一体を表し、花配りで仁、義、礼、智、信の五常の精神を修養することを目的とする。文政2年(1819年)、肥後藩別当の秀島七右衛門が「養菊指南車」を著して以来、花壇造りの作法は200年近くあまり変わっていない。
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被災を乗り越えて
私も1992年から農学部のガーデニング部の学生とともに阿蘇キャンパス(南阿蘇村)で肥後ギク花壇作りに取り組んできた。しかし、今年4月の熊本地震でキャンパスは大きな被害に遭い、多くの学生が被災した。花壇も壊れてしまった。授業は7月1日から熊本キャンパス(熊本市)で再開したが、阿蘇で肥後ギク花壇作りに取り組めるような状況にはない。
それでも伝統園芸を継承したい、肥後六花を広めたいという気持ちは衰えていない。すでに2013年には伝統園芸研究会を作り、研究者だけでなく趣味の方、学生などこれからの担い手140人が活発な活動をしている。世界で最も高いレベルにあった江戸の園芸文化を研究し、地元では肥後六花の世界を多くの方々とともに守り、育てていきたい。
(たなか・たかゆき=東海大学教授)
[日本経済新聞朝刊2016年7月11日付]
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