「北の国から」と生きて 富良野の資料館、21年で幕
木材業、仲世古善雄
倉本聰先生が脚本を手掛け、1981年にフジテレビ系列で放送を開始したドラマ「北の国から」。主な舞台となった北海道富良野市に、小道具や衣装を集めた資料館がある。95年の開館以来、地元の住民らと協力して運営してきたが、維持費や補修費用の問題から、残念ながら8月末で閉館することになった。
資料館はもともと、農協のコメ倉庫だった。当初は倉庫が空になるときだけ場所を借り、夏季限定で開館してきた。シリーズの最終編「2002遺言」が放送された翌年からは、土地と倉庫を私が買い取り、通年開館にした。その年は9万人近い観光客が訪れたが、年々、訪れる人も減り、今では2万人ほどだ。
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倉本先生がレイアウト
展示物は約500点。全て実際に撮影で使われたものだ。撮影が終わると局に掛け合い、今後出番のない衣装や小道具などを提供してもらった。東京のスタジオのセットをばらすとき、「費用は持つから」とトラックで富良野まで運んだこともある。シリーズが進む度に、少しずつ展示物を増やしていった。
パネルの配置や小道具の並べ方まで、レイアウトは倉本先生が全て、手掛けてくださった。夏季限定で開館していたときは、毎年、トラックで私の持つプレハブに運び、また、夏になると同じように配置していた。
主役の黒板五郎一家は富良野の市街地から20キロほど離れた麓郷に住んでいる。倉本先生を初めて案内したとき「まだ日本にこんなところがあるのか」とおっしゃった。「北の国から」には、自然の恵みをいただき、生きる一家の姿が描かれている。麓郷の暮らしは先生の考えるドラマの舞台にぴったりだったのだろう。
ドラマが始まる前、先生から「ヨシオちゃん、麓郷という地名を使ってもいいかな」と打診された。放送されれば、人が押し寄せる可能性がある。地元の集まりで相談したところ、「こんなところに人が来るわけないだろ」と言われた。そのときは誰も、これほどの人気シリーズになるとは思ってもいなかった。
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土地提供し観光客誘導
しかし、「北の国から」が与えた衝撃はすさまじかった。ドラマが始まる前は、スキー客が中心で、夏の観光客はほとんどいなかった。ところが、撮影が始まると人が押し寄せた。狭い道は人であふれ、牧草地に車を止める人もいた。先生がおっしゃっていたのはこのことだったんだなと、そのとき初めて気付いた。
観光客は増えたものの、地元ではマナーなどに不満を口にする人も出てきた。混乱を避け、観光客を誘導するため、私は土地を買い取ったり、自分の土地を提供するなどして撮影で使った丸太小屋などを移設した。
なぜそこまでしたかといえば、撮影開始前、フジテレビから「地元の協力がなければこのドラマは撮れない」と依頼されたためだ。エキストラの手配、廃屋の修理、ロケ場所の提供など、住人にしかできないことが山ほどあった。資料を提供してもらえたのは、こうした協力をしてきたからだ。
ドラマには私がモデルになった役も登場する。亡くなった地井武男さんが演じた木材業を営む、五郎の親友、中畑和夫がそうだ。私が営む「麓郷木材工業」はロケ地としても使われた。作中の「中畑木材工業」の看板はそのままにしてある。
「2002遺言」の撮影のときのことをよく覚えている。前年、私は妻をがんで亡くした。先生から「酷なようだが奥さんの話を書きたい」と言われ、了承した。演じる地井さんもがんで奥様を亡くしており、何度も声を詰まらせながら演じていらっしゃった。地井さんは何度か、私の自宅にも来てくださった。飾らないすてきな人だった。
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メッセージ、今も価値
資料館には、放送時に「北の国から」を見ていなかった人も多く訪れる。豊かさとはなにか、便利さが本当に人類の進歩なのか。ドラマのメッセージは、時代を経た今、なお価値を持っているように見える。若い世代にも、それが伝わっているのを見ると、閉館は苦渋の選択だった。
先生に資料館の閉館を伝えたとき「ヨシオちゃん、ありがとう」と言ってくださった。資料館は閉館するが、展示品は散逸しないよう、まとめて管理したい。地元からは倉本聰記念館を作るべきだとの声も出ている。次の出番まで、大切に守っていくつもりだ。
(なかせこ・よしお=木材業)
[日本経済新聞朝刊2016年7月6日付]
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