エンゲルス トリストラム・ハント著矛盾多き人生解明し名誉回復

この大作の終盤に差し掛かった時、読了するのが名残惜しいと多くの人が感じるだろう。「マルクス主義から最初に逸脱した人物」「恐怖や全面支配のマルクス・レーニン主義は実はエンゲルス主義」ともいわれるように、解釈されては誤解され、引用されては歪曲(わいきょく)されるフリードリヒ・エンゲルス。ゲリラ戦に懐疑的ながらも、1848年の市街戦に加わって「弾丸がかすめる音など些細(ささい)なもの」と報告した「将軍」の知られざる実像を、労働党所属の下院議員でもある英国の若き歴史学者が解き明かす。

(東郷えりか訳、筑摩書房・3900円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

著者が膨大な資料に基づいて描くエンゲルスは、平等主義でもなければ無政府主義でもなく、前衛主導のトップダウン式革命にも批判的。酒と狩猟と女性を愛する一方で、都市理論、軍事理論、フェミニズム、ダーウィン主義などに精通し、矛盾や「否定の否定」に満ちている。

名著『イギリスにおける労働者階級の状態』を24歳の若さで発表し、論敵を追い詰めるほどの能力を備えていたが、マルクスの「第二バイオリン」として、マルクスが『資本論』を仕上げるための資金と自由を保障する。実は、マルクスはブルジョアとしての生活を送り、娘らの良縁のためにエンゲルスに資金援助を求めたのだが、エンゲルスは一貫してマルクスとその一族に寛容で、マルクスの婚外児童を認知し、年収の半分以上をマルクス家に割り当てる。

その豊かな収入が、資本家としてプロレタリアートを搾取した結果であったことは有名な気まずい真実であるが、本書は、エンゲルスが49歳でその仕事を辞して「僕は自由人だ」と叫んだ後も、証券投資家という帝国主義資本家として『エコノミスト』を熟読し、「運用について社会主義の新聞に助言を求めるほど、僕は単純ではない」と言っていたことも明るみに出す。

「人はみずからの歴史をつくるが、自分が気に入るようにではない」とはマルクスの言葉。本書はまさにエンゲルス自身が忌み嫌いそうな部分に光を当て、スターリンらの硬直的思想とエンゲルスの社会主義との相違を浮き彫りにしてエンゲルスの名誉を見事に回復する。

旧ソ連や東欧諸国でマルクス、レーニン、スターリンの彫像が倒され斬首されたにもかかわらず、エンゲルスの彫像は今なおヴォルガ川東岸のエンゲリスに残っている。その理由が分かると同時に、「英国になぜマルクス主義がなかったのか」という学術上の長年の謎も氷解する圧巻の評伝である。

(慶応大学教授 藤田 康範)

[日本経済新聞朝刊2016年6月19日付]

エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 (単行本)

著者 : トリストラム ハント
出版 : 筑摩書房
価格 : 4,212円 (税込み)