患者ロボで手術訓練、若手医師の経験値アップ

ケガや病気で手術を受けるなら、経験豊富な医師を望む人が多いだろう。一方で医師が技能を磨くには、1人でも多くの患者を相手に実践を繰り返すしかない。患者の望みに応えつつ、若手医師を育てる方法はないか。ジレンマの克服に向けて、手術の訓練に使う患者そっくりのロボットを開発する試みが動き出した。

都内の大学病院に勤める20代の研修医は、外科手術に立ち会ったときの緊張感が忘れられない。自分の正面にはベテランの執刀医がいた。「もっとやさしく」「もっとゆっくり」などの指示が執刀医から飛んだ。自身も手を動かし、時間が過ぎるのも忘れるほどだったと振り返る。

だが、強く印象に残ったのは、もう一つ理由がある。この手の経験を繰り返して手術の技能を高めるのはごく普通のやり方だったが、「少し非効率的では」と思えたからだった。

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先輩医師の技を「見て盗め」とされてきた。指示は抽象的な言葉が多い。手術を受ける側の患者から評価を聞くわけにもいかない。患者にとって望ましい技能を身につけているのかどうかがわかりにくい。

東京大学の原田香奈子准教授が率いるチームは政府の「革新的研究開発推進プログラム」の一環で、患者をロボットで再現する試みを始めた。

開発中のバイオニックヒューマノイドのイメージ。精巧な頭部のモデルを作り手術技術の向上につなげる(原田准教授提供)

開発するロボットは「バイオニックヒューマノイド」と呼ぶ。計画では、樹脂製の体に柔らかい素材で作る内臓を詰める。頭部には素材を何層にも積み重ねた脳が収まる。高分子のチューブを血管に見立てて体中を巡らせ、血液に似た粘り気のある液体を流す。臓器や血管の周りに付けたセンサーが人工神経となる。どこまで手術器具を挿入したら臓器などが傷つくかを表現できるようにする。

風変わりな患者を前に、医師は「もっと強く」「もう少し深く」などといった感覚で手術器具を動かす。センサーが圧力や引っぱる力などをとらえ、優れた手術技術を数値化する。

プログラム・マネージャーを務める原田准教授は「センサーがついた精巧な偽物の人間で手術訓練ができれば人材育成も効率よく進むはずだ」と期待を膨らませる。

ロボットは患者への負担を「見える化」する。ベテラン医師の手さばきを圧力や強度の数値データで示し、若手に技能を伝えやすくなる効果もある。

1号機は等身大の女性になる予定だが、当面は、脳外科と耳鼻科の手術に対応できるロボットを作る。

名古屋大学の新井史人教授らが手掛けるのは眼球の模型だ。網膜の表面に薄い膜がはる「黄斑前膜」という病気を発症する仕掛けを施す。膜を取り除く模擬手術に使うが、太さが0.1ミリメートルの血管も作り込む。

手術でこの血管を切ってしまったら失明してしまう。どれだけ力を加えれば血管が切れてしまうか。ロボットの血管にあるセンサーがわずかな感触を数値に変える。実際の患者で試すわけにはいかない手術を繰り返し練習できる。

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頭部の血管の開発を担う東北大学の太田信准教授は、模擬血管で材料の弾力を変えて若い人と高齢者の血管を再現するつもりだ。材料を工夫すれば年齢や性別にかかわらずロボットを作れる。政府のプログラムでは7月にも東京大学病院(東京・文京)に模擬手術室を作り、訓練や医療機器の開発が始まる。

これまでも訓練ロボットは大学の実習現場で活用されてきた。昭和大学などが開発した「昭和花子」は、歯科治療中の痛みを想定した動きをみせる。吐き気や苦しみも訴える。歯科医師の卵が治療経験を積む。

IT(情報技術)やロボット技術が進歩し、人体で起きる生体反応の原理もわかってきた。すべてをロボットに組み込み、患者に仕立てられる時代が近づきつつある。原田准教授は「練習の機会が少ない手術分野の医師を育成して医師不足の解消に貢献したい」と話す。

もっとも、ロボットが患者と完全に入れ替わるのは難しい。発症のしくみや症状がよくわかっていない病気などは表現できない。これまで通り、患者と向き合う姿勢は大切だ。

太田准教授は、精巧に再現した人体が「治療のインフォームドコンセント(説明と同意)の際に模型として使える」と期待する。患者の不安を和らげる利用法もあるという。

患者に接する医師にとって、大切なのは手術の技能ばかりではない。ロボットの活用とともに、患者の状態をよく観察し、コミュニケーションを図る努力も欠かせない。

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問診時はソフトが手助け 「頭ガーン」痛み数値化 症状の分析に期待

医師が患者の思いを理解する難しさも課題になっている。患者自身が自らの症状をうまく伝えられない場合も多いからだ。

電気通信大学の坂本真樹教授は、診察に訪れた患者の痛みや症状をより正確に把握する技術を研究している。開発したソフトは「ズキズキ」や「ヒリヒリ」などのオノマトペ(擬音)から症状の程度を定量化する。問診時に頭痛を「ズキズキ痛い」「ガーンと痛い」といった表現で伝えても、どのような痛みを感じているかがわかる。語彙が少ない子どもや、認知症の高齢者の診断などでの利用も期待できる。

痛みの定量化では、擬音が含む子音や母音、伸ばす音、濁音などに痛さの程度や頻度、場所が隠れていると考える。子音や母音などに点数を割り振り、音の組み合わせから、痛みの「強さ」や「鋭さ」など8項目を点数化する。

例えば「チクッと痛い」と患者が言えば、痛みの質を「強さ(0.13点)」「鋭さ(0.22点)」「長さ(マイナス0.31)」などと分析し、数値のバランスからどんな痛みかを読み取る。

同じ原理で「電気が走るような痛み」などの表現からも、伝えたい症状が分析できるようになるという。坂本教授によると「『ハンマーで殴られたようなガーンとする痛み』から『くも膜下出血の確率が高い』と医師が即座に判断できるようになる」と期待する。

聖マリアンナ医科大学の松田隆秀教授と共同研究に取り組む。様々な擬音を実際の病名と照らし合わせる技術も共に開発中だ。

(矢野摂士)

[日本経済新聞朝刊2016年6月5日付]

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