親子2代でコレクション 豆本の世界、空より広く
収集家、鋤柄道夫
親子2代にわたってミニチュアの本「豆本」を収集している。父は母屋近くの土蔵を書庫として改装し、半世紀近く古書を集めていた。蔵書は4万冊に上り、その中に1000冊ほどの豆本があった。購入先や価格を細かく記したリストが残るほどの綿密さ。とは言っても、15年前に亡くなった父のコレクションに触れる機会は、存命中にはほとんどなかった。
豆本とは手のひらサイズに作られた本のことで、楽しみ方は様々。精密な作りを眺めたり、小さな文字に目を凝らしたり、さらには作る楽しみもある。携帯用の聖書が作られた西洋のみならず、日本でも江戸時代には「雛(ひいな)本」などと呼ばれ流通するなど歴史は古い。
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象牙表紙の宝石本
父はどうして豆本にひかれたのか。愛知県蒲郡市で織布業を営んでいたが、資金繰りなど、仕事では厳しい局面も多々あっただろう。土蔵にこもり、本を眺めることで日々のプレッシャーからひととき解き放たれていたのかもしれない。
子供は土蔵にめったに入れなかった。一度、コレクションに触れた姉が父の逆鱗(げきりん)に触れ、それ以来、土蔵の扉はより閉ざされた。寡黙で子供と行動を共にすることもあまりなかった。
父のコレクションの中に忘れられない豆本がある。私が小学校低学年の頃、なぜか土蔵の中に入ったことがあった。その時、父から1959年に刊行された佐々木桔梗(ききょう)著『寶石(ほうせき)本の話』を見せられ「奇麗な本だ」と父がつぶやいた。小さなルビーとエメラルドが埋め込まれている象牙表紙。豆本を集める私の記憶が帰ってゆくのは、この本のたたずまいだ。
1999年に父が脳腫瘍で倒れ、開かずの土蔵を整理することとなった。入ってみると、人がやっと通れるくらいの間隔で本棚が並び蔵書がびっしり。当時は豆本に対して、集めるほどの関心が湧かず、ケースに入ったものなど約300冊を残し、あとは処分した。
私も仕事が忙しく、それ以来整理が進まなかったが、2年前の夏に会社を退職。父の遺品を見つめ直した。竹の表紙で、新潟の「鶴声居」発行の野呂邦暢著『飛ぶ少年』(1976年刊)や、ガラスの表紙が涼やかな東京の「未来工房」発行の宮尾登美子著『卯(う)の花くたし』(1987年)。普通の大きさの本と違い、自然とやさしく扱うようになる。この感覚が豆本に触れる大きな魅力だ。父もこんなふうに、同じ豆本を手に乗せて楽しんでいたのだろうか。
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企業PRで刊行相次ぐ
父は、本に貼って所有者を示す「蔵書票」も収集していた。父の存在を思い出してほしいとの思いもあり、2014年に豊橋のギャラリーで「蔵書票展」を開催した。その際、蔵書の処分を知った父の親友から、「お父さんはどうしてほしかったかね」と言われた。漫画本やポストカードの収集は以前から手がけていたが、私もついに豆本を集めることになった。
豆本の世界はそのサイズに反して、広く深い。戦後には「豆本ブーム」が起き、童画家・版画家の武井武雄が戦前戦後にわたって制作した「武井豆本」や、北海道を拠点とした「ゑぞ・まめほん」がその先駆けとして知られる。各地の好事家の手によって「名古屋豆本」など地名を冠したシリーズが続き、銀行やメーカーなど様々な企業がPR用に刊行していた。
収集においては、自分の趣味に父の趣味を加味して当たりをつける。お酒が好きなので、サントリーの「洋酒マメ天国」全36冊は必備。色とりどりで平置きにすると美しい。「ジャングル大帝」「リボンの騎士」など、手塚治虫原作の豆本は200冊を購入。父がファンクラブに入るほど好きだったからだ。
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父の供養に蔵書展
気がかりなのは、父が亡くなり収集が中断した日本古書通信社刊行の特装版「古通豆本」シリーズ。全141冊だが、あと6冊が足りない。全37冊の「ゑぞ・まめほん」は、父と私で10冊。これもいつかそろえたい。コレクションも今では800冊ほどになった。
供養になるだろうと、今年1月には地元の蒲郡市立図書館で、父の豆本などのコレクション展を開催した。本だけではなく、昆虫関係、こけし、版画、切手、ポストカード等々の収集も手がけていた父に付いた戒名は「守寶道一居士」。趣味の道一筋という意味だろう。遺品整理をしながらふと、自分は父によく似ているなあと思ったことがある。これは気をつけなければ。
(すきがら・みちお=豆本収集家)
[日本経済新聞朝刊2016年5月30日付]
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