交易で栄えた長崎の「平戸スイーツ」
和も洋も、歴史感じる味
長崎県平戸市で平戸港を囲む旧城下町に、スイーツを提供するお菓子の店が集まる。平戸大橋を渡り平戸城から港を見下ろすと正面に平戸オランダ商館、左手には寺院と教会が一度に見える平戸ザビエル記念教会。中世にタイプスリップした気分になりながら、「平戸スイーツ」を楽しむ旅に出た。
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1639年に完成した巨大な石造り倉庫を基に復元したオランダ商館近くに「菓子工房えしろ」がある。洋菓子と和菓子を1つの店で製造販売する平戸では珍しくないスタイルの店だ。
江代雅也代表(41)は自ら菓子屋を始めた。老舗の多い当地で新参者ながら、ポルトガル菓子のエッグタルトや平戸ケイジャーダなど様々な南蛮菓子に挑戦する。ケイジャーダはチーズを使ったお菓子で、外はさくさく、中はしっとり。レモン果汁でちょっと酸味がある。エッグタルトはカスタードクリームのパイで、甘さ控えめでクリーミーな味わいがする。
中国との交易で栄えていた平戸にポルトガル船が入港したのが1550年。1609年にオランダ商館が設置され、スペインや英国など含めヨーロッパとの貿易拠点となった。しかし、江戸幕府によるキリシタン禁制が厳しくなり、長崎の出島への移転を前に商館は破壊された。
オランダとの直接の交流はなくなるが、出島を通じて砂糖などは入ってきた。博学多才だった歴代の松浦家当主の下、平戸スイーツは独特の発展を遂げる。
松浦家の膨大な資料を保管する松浦史料博物館の岡山芳治館長(54)は平戸スイーツ仕掛け人の一人。平戸蔦屋の松尾俊行代表(51)と10年ほど前に、松浦家35代の熈(ひろむ)が作った百菓之図の菓子を復元しようと考えた。
茶菓子の烏羽玉を復元することは固まったものの、極彩色の絵図とはいえ材料の細かい分量は書かれていない。そもそも烏羽玉がどんな味だったのか誰も知らない。試作を繰り返し、東京の菓子店などに試食してもらいながら完成に1年以上かかったという。
黒ゴマ入りのこしあんをぎゅうひで包み、高級な砂糖の「和三盆」をたっぷりと使った。抹茶にあう上品な味だが、黒ゴマの風味がしっかり感じられた。
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岡山館長は普段はオランダ商館長日記などを読み込む歴史の専門家だが「歴史の話を広く伝えるのにスイーツはいいアイテム」と語る。誰でも食べてすぐに実感できると、新しい平戸のスイーツ作りにも乗り出している。菓子店などと「南蛮スイーツ研究会」を結成し、織田信長も食べたといわれるコンペイトウに平戸の塩をまぶして「今平戸(こんぺいとう)」を開発。口に含むとしょっぱいが、後から甘みが広がる。平戸城の真下にある平戸観光協会直営売店などで買える。
平戸スイーツの代表と言えば、甘くて有名なカスドースだ。湖月堂老舗(ろうほ)と蔦屋の商品は日本有数の納税額を誇る平戸市のふるさと納税の返礼品になっている。「湿気に影響を受けるので、季節により材料の分量を調整する」(湖月堂)という。
カステラ生地を卵黄に漬け、砂糖をまぶす。蔦屋の工場で砂糖をまぶす前のものを食べさせてもらうと、フレンチトーストのようでおいしい。完成したカスドースは、甘すぎないようにカステラ生地の砂糖は控えめだ。
カスドースは当時は貴重な卵と砂糖をふんだんに使い、藩主の「お留め菓子」として一般には口にできなかった。一方、牛蒡餅(ごぼうもち)は茶菓子や慶事・法事などに出す「お配り菓子」として庶民に浸透してきた。名前は黒砂糖を使い、色や形が牛蒡に似ているからと伝わる。牛蒡餅本舗熊屋の牛蒡餅を食べると思ったより甘くない。名古屋のういろうの少しこしを強くした感じだ。
平戸のスイーツは九州本土側の田平町や生月島にも広がる。修業を終えて熊屋に戻ってきた熊屋誠一郎専務(32)や、菓子処津乃上などに次を担う世代が育っている。蔦屋の松尾代表は「お菓子はその土地の文化のシンボルであるべきだ。風土色豊かなお菓子を作っていくことが我々の使命」と語っている。
百菓之図は平戸藩主松浦家第35代の熈(ひろむ)が100種類の菓子作りを城下の蔦屋などに命じ、1845年に作り上げたお菓子の名前と作り方を記した書。カスドースや烏羽玉、花かすていらなどが紹介され、菓子の断面図なども極彩色で描かれている。
所蔵する松浦史料博物館と蔦屋がこの中から12種類の菓子を復元した。同史料館の茶室、閑雲亭ではカスドースか烏羽玉を抹茶とともに楽しめる。松浦家は代々文化人を輩出。29代の鎮信(ちんしん)は茶道の鎮信流を創始、今に続く。
(長崎支局長 三浦義和)
[日本経済新聞夕刊2016年5月17日付]
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