「はだしのゲン」、世界駆ける 普及活動続けて20年浅妻南海江

活動20年を記念し、2月には翻訳者が広島で一堂に会した(前列右から2人目が筆者)
活動20年を記念し、2月には翻訳者が広島で一堂に会した(前列右から2人目が筆者)

原爆投下後の広島を舞台にした漫画「はだしのゲン」の原作者、中沢啓治さんは折に触れて「おふくろの骨がなかったんだ」と口にされた。中沢さんのお母さんは1966年に原爆症で亡くなった。火葬の後、放射線の影響で骨は残らず、あったのは白い灰だけ。お母さんが2度殺された。

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ロシア語などで紹介

悔しさにもだえ「こんちくしょう」と言いながら書いたというはだしのゲンは今や、23カ国語に翻訳され世界中の読者へと波紋のように伝わっている。ゲンのロシア語・英語訳を進める市民団体「プロジェクト・ゲン」の活動を始めてから今年で20年余りになる。きっかけは団体の代表を務める私がある翻訳を請け負ったことに始まる。

大学でロシア近代史を学んだ私は結婚を機に金沢へと移り、日ソ協会の外郭団体「金沢ロシア語センター」で翻訳業務に携わるようになった。留学生や芸術家のロシア人と交流を続け、子育ても一段落した94年。親子の被爆体験を元にした朗読劇「この子たちの夏」の台本を、ロシア語に翻訳する仕事が舞い込んだ。

一緒に作業した同僚の中にイルクーツク出身の女性がいて、泣きながらタイピングしたと私に打ち明けた。理由を聞くと「こんなことは知らなかった」。ヒロシマ・ナガサキという地名は有名だが、原爆による具体的な惨状は知られていない。

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人間性失わぬ姿描く

理解を助けるよいテキストになるのではと「はだしのゲン」をロシア語に訳し始めた。中沢さんに手紙で翻訳の許可をお願いすると、偶然モスクワで翻訳プロジェクトが進んでいると知らされた。当時現地に留学中の田邉美奈子さんという方が手がけられていた。

その後帰国された田邉さんと合流して翻訳を進め、95年、全10巻のうち1巻がモスクワの出版社から初版1万部で刊行された。その後、3巻まで順調に出版が進んだが、98年にロシアで経済危機が起き、プロジェクトはいったん休止した。

「はだしのゲン」が描くのは、原爆投下という極限にあっても弱い人に手をさしのべる、ゲンの人間性を失わない姿だ。3巻までは原爆の悲惨さが強調されるが、4巻に至って、そんな本当に伝えたい作者の思いがにじみ出る。じゃあ、自分で出版しようと思った。新たなメンバーでプロジェクトを再開し、版下の制作に取りかかった。

編集は細かい作業の繰り返しだ。漫画を1ページずつスキャナーで取り込み、吹き出しのセリフを抜いてロシア語訳を入れてゆく。ロシア語は横書きだから、視線が移りやすいよう画像を反転させて左綴(と)じにする。お箸の持ち手や着物の合わせが逆になったりと難はあるが次善策だ。

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米国からも反響

主語などの省略が多い日本語を訳すとどうしても長くなるが、元の吹き出しは縦長。画を尊重して言葉を省くか、言葉を尊重して吹き出しの大きさを変えるか。暗中模索の作業が続いた。

「みそ汁」をどう訳すかといった翻訳につきものの問題もある。訳注をいくらか付け、表現が難しいものは諦めた。校正作業ではロシア人留学生らの協力を得て、全10巻まで金沢で自費出版した。

より広く読者に届くよう、英語版の翻訳を決意したのが2000年。プロの翻訳者らにボランティアを依頼し、09年に完結した。その間、ある篤志家が全米の公立図書館3000カ所に1~2巻を寄贈してくれた。

「日米戦争についてもっと知りたい」。読んだ方からエアメールが幾つも届いた。米国でも原爆投下後の惨状はほとんど知られていない。学校で教えられないからだ。

プロジェクト・ゲン代表の浅妻南海江さん

英語版が弾みとなって、トルコやオランダなど海外の出版社や日本在住の翻訳家、学者らから問い合わせが相次ぐようになった。今年の2月には翻訳者が広島で一堂に会する機会を設けた。アラビア語など国連公用語6カ国語に加え、例えばシンハラ語やインドネシア語など、翻訳言語も人の輪も広がっている。

平和な世の中を願い、ゲンの翻訳や普及活動を続けてきた。「あいつ、がんばってますなあ」。翻訳言語の広がりに目を細められていた中沢さんの姿を思い出す。そして「こんなもんじゃなかったんだ」とおっしゃっていたことも。せっかく生まれた人間が残酷な目に遭って死ぬ。人生は1回きりなのに、どうして。

(あさづま・なみえ=プロジェクト・ゲン代表)

[日本経済新聞朝刊2016年5月3日付]

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