世界との違和感を形に 過激な表現者、独自で生きる
映画監督・園子温さん
過激な表現者だ。家族の崩壊、血まみれの暴力、モラルの冒涜(ぼうとく)。その底に流れる世界との違和感は小学生のころからあった。
「間違った所に生まれたと思っていた」。父も母も教師。厳しい家庭だった。妹やいとこも優等生。「劣等生には生きづらかった」
でも「自分を押し殺して生きるつもりはなかった」。起立、礼を無視した。砂場に裸体を造形した。「セックス」という言葉を知って校内新聞の号外を発行した。教師には「お前はホームレスになる」と言われた。
一方で自宅の大量の蔵書を片っ端から読んだ。ドストエフスキー、ヘンリー・ミラー、江戸川乱歩、つげ義春……。テレビで放送される洋画も見まくった。
17歳で家出した。「故郷の重力から解放されたかった。衝動的に。考えちゃったらできないから」。詩を書き、漫画を描いた。バンドも演劇もやった。
21歳で大学に入ってからは8ミリ映画を撮った。ぴあフィルムフェスティバルで入選し、審査員の大島渚に「迷っていてはいけない」と言われ、腹をくくった。
当時書いた脚本が「地獄でなぜ悪い」と「ラブ&ピース」。映画青年がヤクザに雇われて実録ものを撮る話と、孤独な青年が飼うカメが巨大化する話だ。「本気で商業映画にするつもりだった」がかなわず、50代でようやく実現した。
「自転車吐息」を出品した1991年のベルリン映画祭でアレクサンドル・ソクーロフらの映画に「ぶったまげた」。「誰もやってない自分だけの表現をもとう」と決め、帰国後「ひそひそ星」の脚本を書いた。
人類が絶滅危惧種となった未来。アンドロイドが星々を巡り、宅配便を届けている。瞬間移動が可能な時代に、なぜ人間は贈り物をするのか? アンドロイドは考える……。セリフは少なく、レトロな宇宙船の生活音ばかりが聞こえる。
「詩との境界を取り払った」野心作。だがなかなか撮れず、集めた500万円は減っていく。残金で撮ったのが「部屋」(93年)。海外映画祭で評価を得るが、以後、映画が撮れないという「現実にぶつかった」。
活路を探ったのが路上パフォーマンス「東京ガガガ」だ。旗に詩を書き、渋谷の交差点などを占拠する。規模は2千人に膨らんだが「また壁にぶつかる」。渡米し、路頭をさまよった。
「一番めちゃくちゃな脚本で、やりたいことをやろう」と決め、帰国して撮ったのが新宿駅で女子高校生が集団自殺する「自殺サークル」(2002年)。40歳だったが四畳半に住んでいた。
快進撃が始まった。06年「紀子の食卓」、08年「愛のむきだし」、11年「冷たい熱帯魚」……。どれもオリジナル脚本だ。「30代に撮り続けていれば、あんなに飢えていなかった」
昨年は新作を4本も公開したが、原作物は今年の「新宿スワン2」でやめる。「商業映画は米国で撮る。製作費が違うから。日本ではオリジナルを撮り続ける」
25年の時を経て「ひそひそ星」を自主製作した。「希望の国」(12年)で向き合った福島で再び撮影し、荒涼とした風景に現代を映し出す。「福島は今の日本の象徴。ドラマを考えると、どうしても絡めたくなる」
◇ ◇
シャイでフラットな人
「つかみどころがなく、距離が詰まらない。仲良くなった感じもない。それが唐十郎さんと園さん。そのもどかしさが映像に緊張感を与える」
ドキュメンタリー映画「園子温という生きもの」を撮った大島新監督は語る。実は記者にも同じ思いがあった。
「極端なシャイボーイですからね」と大島。同時に「フラットな人」とも感じたという。「人を簡単に尊敬しないし、簡単にバカにしない。偉い人が来てもペコペコせず、新人にも人間的に接する。福島の被災者とも自然につきあう。独特の人間力がある」
根っこにあるのは表現者としての覚悟か。映画で園は叫ぶ。「いいとか、悪いとかどうでもいい。大事なのは書いて、生きて、表現すること」
無軌道ぶりが時に批判されるが、園は逆に闘志を燃やす。
「自分はこれだと考えちゃいけない。ピカソは別人のように違う絵を描いていったけど、どれもピカソでしょ。1カ所に留まらず、次のところに行きたい。挑戦したい」
(編集委員 古賀重樹)
[日本経済新聞夕刊2016年4月27日付]
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