うめ婆行状記 宇江佐真理著
爽やかに温かく語られる箴言
大切なものを、最後に手渡された。そんな気持ちになる人も多いことだろう。なぜなら本書は、昨年十一月に乳癌(がん)で死去した宇江佐真理が、亡くなる直前まで書き続けた、正真正銘の遺作だからだ。
酢・醤油(しょうゆ)問屋「伏見屋」の娘だったが、訳あって嫌々、北町奉行所同心の霜降三太夫に嫁いだおうめ。気短な夫と、他家に嫁いだのに何かと口を出してくる義姉に悩みながらも、四人の子供を育て、いつしか三十年の歳月が過ぎた。しかし、三太夫が卒中で死んだことで、彼女の心中に変化が起きる。家を出て、気(き)儘(まま)なひとり暮らしをしようと思ったのだ。息子の反対を押し切り、さっさと裏店(だな)で暮らし始めたおうめ。たまたま隣家の徳三・おつたの夫婦が知り合いだったため、生活の滑り出しは上々だ。おつたと一緒に、梅干しを漬けるという楽しみもできた。しかし、実家の甥(おい)の隠し子騒動に巻き込まれ、おうめの周囲は賑(にぎ)やかになっていく。
作者と親交のあった作家の諸田玲子は、本書の解説で「宇江佐さんの遺言がちりばめられた貴重な作品ともいえる」と、記している。なるほど、亡くなる直前まで執筆したという本書は、四十八歳でひとり暮らしを始めたおうめと、周囲の人々を通じて、老いと、その先にある死が見つめられている。「誰でも年を取るのよ。でも、ただ老いぼれて行くのはつまらない。自分ができることを見つけ、楽しく暮らさなきゃ。それで、本当に死ぬ時は、ああおもしろかった、楽しかったと言って死ぬのよ」という、おうめのセリフなどは、まさに作者の遺言といっていい。自分の裡(うち)から絞り出した言葉の数々は、読者の胸を打つ箴言(しんげん)である。
しかし一方で、ストーリーに重苦しさはない。甥の隠し子騒動を中心にした、慌ただしい日常に、おうめは正面から向かっていく。時に感情を爆発させながら、幸せな結末のために奔走するヒロインの言動が、爽やかで、温かいのだ。また、家から離れたことで変化していく、おうめの心境も読みどころになっている。
残念なことに本書は未完だが、作者が書きたかったことは、十全に表現されたように思われる。生きることの意味。死ぬことへの想(おも)い。後に残された者に願うこと。すべてが、ここに託されているのだ。そしてそれは、デビュー作から一貫して、市井の人々の哀歓に満ちた人生を描いてきた、作者のたどりついた境地であろう。本書を遺作にした、宇江佐真理の作家としての軌跡は、見事というしかない。
(文芸評論家 細谷 正充)
[日本経済新聞朝刊2016年4月24日付]
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