離陸 絲山秋子著閉ざされた世界で遭う不条理

2014/10/8

かつて、“編集者だったら誰にどんな依頼をしたいか”という質問に、「絲山秋子さんに女スパイものを書いてほしい」と即答しましたが、まさか本当に読める日が来るとは!

(文芸春秋・1750円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 幸せです(伊坂幸太郎)――という帯の言葉につられて買うと、伊坂ファンもスパイ小説ファンも失望するだろう。伊坂幸太郎的な軽妙で先のよめない展開も、スパイ小説がもつ諜報(ちょうほう)戦争もない。

 辻原登、吉田修一、中村文則などをあげるまでもなく、近年純文学作家たちのミステリ志向は強まり、なかなかの小説巧者ぶりを示しているけれど、絲山秋子はあくまでも純文学にとどまり、イメージの象徴性を練り上げて高みを目指している。

 国交省のキャリアの佐藤弘(ひろむ)は出向先のダムの管理事務所で黒人イルベールの訪問をうける。「女優を探してほしい」というのだ。昔付き合ったことのある舞台女優の卵の乃緒(のお)のことで、彼女はフランスで生活をしていたが突然消えたという。

 やがて佐藤はユネスコの仕事でパリに行き、一九三〇年代の写真と書類を手渡される。写真に映る女性は明らかに乃緒で、彼女のスパイ活動をめぐる報告書だった。女優はタイムスリップして現代にきたのではないか、そんなことはありえないと思うが……。

 書類における暗号解読、身近で起きる連続殺人事件などミステリアスな内容を含むものの、いささか都合が良すぎる。ヒーローは謎を解くのではなく、情報を与えられ、翻弄される役割。身近な死すら目撃されずに伝聞で届く。追求するのは事件のリアリズムではなく、閉ざされた世界で曖昧なままに遭遇する死や、不条理な出来事である。

 それは主人公の妹や関係者の親族に視覚障害者を配置していることでもわかるだろう。焦点は閉ざされた世界での探知であり、(“女優”がスパイ活動として接近するセリーヌの作品名を使うなら)「夜の果てへの旅」の感触である。しばしば語られる水のイメージ(放流するダムや決壊の不安)はやがて離陸のイメージ(足許〈あしもと〉の崩壊もしくは生から死への飛翔〈ひしょう〉)につながり、浮遊感覚にみちた女優の幻惑感もそれに奉仕する。

 関係者の名前(ジュスティーヌやネシム)や、人物たちの出自たる孤島などからロレンス・ダレル『アレクサンドリア四重奏』などへのオマージュもうかがえて、比較検証の誘惑にもかられる。文学的イメージの連繋(れんけい)とテーマ把握が強力な意欲作といえるだろう。

(文芸評論家 池上 冬樹)

[日本経済新聞朝刊2014年10月5日付]

離陸

著者:絲山 秋子
出版:文藝春秋
価格:1,890円(税込み)

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