最後に真相を知ったとき、痛切な思いを抱かずにおられない。本作はそんなミステリーだ。
主人公は、かつて手が専門の整形外科医だった64歳の女性、ジェニファー。いまはアルツハイマー病を患っており、介護人の世話を受けていた。だが、そんな彼女に殺害容疑がかけられた。殺されたのは、昔からの親友アマンダで、しかも彼女の指は切断されていた。はたしてジェニファーが犯人なのか。
この小説がきわめて異色なのは、認知症患者の視点で綴(つづ)られているところだ。ジェニファーの意識の流れや科白(せりふ)のほか、彼女が見聞きした会話や文章により構成されている。
すなわち、つねに記述があやふやなのである。なにしろ会いに来た息子のことさえ分からない。ときおり両親が生きている時代に思考が戻ったり、自分はまだ現役の医師だと思い病院へ行ったりする。当然、アマンダが殺された事件のことを尋ねられるたび、記憶にない。
認知症患者につきそった経験のある方ならば、こうしたヒロインの言動や思考の描写に納得することだろう。古い記憶や日常化した行動はしっかりしていながら、いまさっき話したことは忘れている。日によって病状は異なるものの、確実に認知機能は衰えてゆく。そんな姿が生々しく綴られているのだ。
物語が進むにつれ、マークやフィオナといった子どもたち、亡くなった夫のジェイムズ、そして友人アマンダらとのさまざまなエピソードが明かされ、ジェニファーの人生の全体像が次第に明らかになっていく。記述の大半が、こうした家族や友人と交わすゆったりとした会話なので、驚くほど読みやすい。
それでいて、認知症患者という文字どおりの「信頼できない語り手」の視点が導入されているため、ミステリーの興趣が活(い)かされている。ヒロインはどこまで事実を知っているのか、単に忘れているだけなのか。それとも誰かの企(たくら)みが隠されているのか。疑うときりがない。
しかも、ジェニファーの病状はひどくなるばかりか、自分自身について、だんだんと他人ごとのように距離をとりながら語りだす。そんな姿に、なにか胸に迫るものが感じられた。
そしてラストで明かされる事件の真相。どれほど認知症が悪化しようと、その人の身についた感覚や深く根を下ろした愛情は残っている。まるで人生の証(あかし)であるがごとく。
本作は、単に認知症や老いと家族の問題にとどまらず、記憶と思考の向こうにある自己の存在に迫ったミステリーなのだ。
(文芸評論家 吉野 仁)
[日本経済新聞朝刊2014年8月24日付]