「文具などを買えない子どもが増えているのよ。放っておけないわ」。ボランティアで無料学習会に協力している主婦の話に、探偵、松田章司は首をかしげた。「今の社会保障では子どもを貧困から守れないのかな。どうすればいいのだろう」
■教育で不利、自立に影響も
章司が調べると、経済的に困窮する家庭に学用品代などを補助する「就学援助制度」の支給対象者は、2012年度に小中学生の15.64%となり、調査開始以来17年連続で上昇していた。
「でも援助制度があれば安心ですね」。章司が、小中学生向けに無料の学習会などを開くNPO法人キッズドアを訪ねると、理事長の渡辺由美子さんは「そんなことはありません。学校の教育力が落ちており、都市部では多くの子どもが塾に通っています。親が塾に通わせる余裕がない場合、その後の進学や就労に差がついてしまいます」。
経済協力開発機構(OECD)によると日本は学校にかかるお金の私費負担割合が3割と平均より高く、塾などを入れると家庭の負担はさらに膨らむ。文部科学省の調査では、学力テストの結果や卒業後進路に親の年収が影響することが分かっている。「生活が困窮している親には学習習慣を身につけさせる余裕がありません。貧困家庭に生まれた子どもが貧困に陥る『貧困の連鎖』は断ち切る必要があります」と渡辺さん。
■投資通じ「負の連鎖」断つ
さらに調べると、インターネット上で受けられる無料塾も増えていることが分かった。NPO法人manaveeでは全国の大学生などのボランティア講師が、無料で中高生向けに受験対策の講義映像を配信している。代表の手嶋毅志さん(19)は「地方には適当な塾がなかったり料金が高くて行けなかったりします。地域間格差、経済格差を解消したいという思いで講師になる人が多いです」と話す。
章司は背景を探ろうと、みずほ情報総研を訪ねた。主席研究員の藤森克彦さん(48)は、貧困層が増えていることを示す「相対的貧困率」のグラフを出し、「企業が男性の正社員を終身雇用し、家族を扶養する従来のあり方が崩れています」と解説した。子どもの貧困率上昇の理由は「母子家庭が増えていることが一因です。シングルマザーの8割は働いていますが、非正規労働が中心で家計が苦しいのです」と藤森さん。
「無料の学習会や塾が増えれば格差を解消できるのでは」。章司が事務所に戻って報告すると、所長は「そもそも学校の勉強では不十分なことが問題だろう」。改めてOECD調査を見ると、日本の政府支出に占める教育支出は32カ国中31位だった。
「でも、子どものいない人には関係ない話にも思えるなあ」。章司がつぶやくと、「生まれた地域や家庭環境にかかわらず、能力を生かし経済的自立ができる人を育てることは国づくりの根幹ですよ」と声がした。振り向くと、NPO法人、Teach For Japanの代表理事、松田悠介さん(30)だった。
同団体は米国で始まった取り組みの日本版で、トップ大学の卒業生や企業で活躍した人材を、課題の多い地域の学校に教員として送り込む。「教育段階のつまずきをなくし、単価が安い海外の労働力やロボットに代替されない人材を育てることは日本にとって必要です」と松田さん。
国立社会保障・人口問題研究所の社会保障応用分析研究部長、阿部彩さんに聞くと「労働力人口が減る中で、貧困に陥って能力を発揮できない子どもが多ければ国の財政にもマイナスです」。
18歳の若者に職業訓練を受けさせるなど500万円ほど投資をしても、正社員として就労できた場合、定年まで働けば5千万円程度(非正規では2500万円前後)の税・社会保険料が社会に還元される。一方、放置して生活保護に陥った場合、約5千万円の費用がかかる。職業訓練による就労が成功するとは限らないものの、費用対効果は1億円近いともいえる。
海外では貧困の増加は治安の悪化や犯罪の増加につながるとして、社会的コストの試算に入れることもあるという。「米国の州別データでは貧困層が増加すると経済成長が鈍化するという結果も出ています」と阿部さん。
「実は日本の再分配政策は非効率で、貧困解消に力不足です」。一橋大学教授の小塩隆士さん(53)も会話に参加した。社会保障の多くが幅広い高齢者向けで、本当に困っている高齢者や若者、子どもに向かっていないという。「再分配による相対的貧困率の改善率は50%で、OECD30カ国中25位という成績の悪さです」と小塩さん。
「子どもに投資する期間は一時的で人数も減っているので大きな費用にはなりません。しかも、就学前の子どもへの投資効果は高いとされています」と再び、阿部さん。13年に産まれた子どもの数は過去最少を更新。政府は出生率の引き上げ目標を立てようとしていたが、「現金給付で家庭を安定させて貧困層の子どもたちを引き上げるほうが、政策として取り組みやすいと思います」と阿部さん。
章司が事務所で報告を終えると、三毛猫のミケが子猫を連れてきた。「将来、探偵猫に役立つかも」と章司。所長は「若手探偵よりこっちに投資するか」とニヤリ。
■家庭養護の役割大きく
「貧困の連鎖」は、保護者と暮らせない事情がある子どもたちの間ではさらに深刻だ。世界の人権問題に取り組むNGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)によると、日本では虐待から保護されたり親と死別したりした子どもの9割近い3万4千人(2013年)が、乳児院や児童養護施設などで暮らす。
HRW日本代表の土井香苗さんは「海外に比べ養子縁組や里親制度で家庭に引き取られる割合が極端に少ない。施設では虐待やいじめの問題も指摘される場合がある」と話す。子どもたちは18歳で自立を目指すが、保証人を得づらく、貧困に陥ったり、その子どもがまた施設に入ったりする事例も多いという。
土井さんは「施設養護には0~18歳の間で1人1億円程度かかるといわれる。国の費用面でも里親の方が少なく、養子ではほとんどかからない。家庭養護は本人にも財政にも好影響をもたらすはず」と指摘する。
養子縁組に詳しい東京大学研究員の野辺陽子さんは「子どもを授からなかった夫婦など里子や養子を受け入れたい家庭があっても、あっせんの条件が厳しく実現しないことも多い」と話す。子どもに障害がある場合など、受け入れる家庭の側の心の準備が整っていないこともあるという。野辺さんは「受け入れ後も家庭を継続的に支援をしていく必要がある」と強調する。
(井上円佳)
[日本経済新聞朝刊2014年6月10日付]
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