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舞台・演劇

橘香会「江口」 梅若万三郎が隙のない芸

2014/5/8 日本経済新聞 夕刊

能の修養は終生、日々が勝負。楽をすると地芸はいつしか衰え、たゆまず刻苦を重ねれば至高の名手に成長もする。難曲「江口」で梅若万三郎が後者を地で行く高い境地を示した(19日・国立能楽堂)。

淀川河口・江口の里は平安時代の遊女の名所。西行法師と歌問答を交わした名妓(めいぎ)の幽霊が旅僧の前に現れ深遠な仏教哲理と世の無常のさまを謡い舞ううち普賢菩薩(ぼさつ)に変身して西の空に消え去る。

品位高雅な万三郎は後半、遊女の舟遊び以降が圧巻。誤解を恐れず言えば能芸の本質は技術力である。一挙手一投足隅々まで調える集積の上に余得としての格調や情緒が漂う。肝心の身体が疎(おろそ)かな役者に「オーラ」を幻視しても虚(むな)しく無意味だ。万三郎にそうした隙は皆無。わずか二足フワリと詰める歩みは軽々と見せつつ体幹は決してブレない。豪華な唐織を着て自由を制約されても上腕の動きはあくまで強い。過不足なく顎が引けて面の表情に締まりがある(能役者は力量が落ちると決まって顎が出るものだ)。

扇を大きく扱い仏体に変ずる頂点では内面の「気」によって威光を放ち、橋掛かりで足を上げ白雲に乗る所作は堅固な腰の力あればこそ崇高な透明感に満たされる。内に秘めた技術は役者の精神の現れである。聖俗二面を映すこの名作は万三郎によってこう演じられるのを待っていたかのようだ。かほどの名手がこれまで公的表彰に恵まれない不思議。いつの時代も俗世の栄典は巡り合わせか。

舞台上に静座するだけで一曲を鎮める旅僧・宝生閑の存在感。「遊女すなわち仏」を傍証する里人・山本東次郎の厳格な語り芸。松田弘之の笛がすばらしい。一楽節八拍の冒頭をタップリと吹き重ねつつ音楽を螺旋(らせん)状に高めてゆく序ノ舞の力量。今後の第一人者たる資格充分(じゅうぶん)である。

(演劇評論家 村上 湛)

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