哲学入門 戸田山和久著人間が抽象物使いこなす道筋

2014/4/22付

私とは何か、自由とは何か、生きる意味とは何かというような問いを、徹底的に突き詰めて考えていくのが哲学だ。本書は、ここ数十年の英語圏の分析哲学や科学哲学の知見を縦横に駆使しながら、これまでの教養主義の哲学入門にはなかった、新しい世界像を垣間見させてくれる。

(ちくま新書・1000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 著者の戸田山は、次のような前提で哲学をしていこうとする。まずは、唯物論である。この世のすべては物理的なものだけでできている。そして、たいがいのものは物理的なもの同士の相互作用で説明することができる。もうひとつは、自然科学を信頼することだ。哲学も、科学の知見によって鍛えられながら発展していかなければならない。

 しかし、そのような立場を取ってしまうと、最初に言ったような、私だとか、自由だとか、生きる意味というような、見ることも触ることも測定することもできないような抽象物はどこにも実在しないという結論になってしまうのではないだろうか。

 だが戸田山は、そうは考えない。それらの抽象物は、私たちが生き物としてこの地球上で進化していくプロセスのなかで、どこからともなく湧き出てきたというのだ。そしてそれらの抽象物は、物質とはまったく異なった形式で、私たちの住むこの世界にはめ込まれ、私たちにとってなくてはならない不可欠のピースになったのである、と。

 人間と動物のあいだに決定的な断絶があるわけではない。人間が登場する以前の動物だって、自由のようなものを持っていたし、原始的な記号操作もできた。生物進化のプロセスの途上で、人間がそれらをさらに発展させて、自己制御能力や、未来についての目標設定能力を開発していったのである。その結果として、人間は、目的、自由意志、道徳といった高度な抽象物を使いこなせるようになった。その道筋を哲学的に論究した箇所が本書の白眉である。

 だが、自由意志や責任などの抽象物は、いつか使い勝手が悪くなるかもしれない。脳科学の進展によって、人間の自由意志と思われていたものが、実は、脳内物質のはたらきによって生み出された虚像であることが分かるかもしれないからだ。

 しかし、たとえ自由意志や責任という概念が人間から奪われたとしても、それによってディストピアが到来するわけではない。むしろそこは他人から理不尽な責任を押しつけられることのない魅力的な社会かもしれないと著者は言うのである。哲学者からのこの挑戦状をどう受け止めればいいのだろうか。

(大阪府立大学教授 森岡 正博)

[日本経済新聞朝刊2014年4月20日付]

哲学入門 (ちくま新書)

著者:戸田山 和久
出版:筑摩書房
価格:1,080円(税込み)