カジュアル・ベイカンシー 突然の空席(1・2) J・K・ローリング著地域社会での愚行と破滅の物語

2013/1/15

全世界で4億5000万部を記録した超ベストセラー「ハリー・ポッター・シリーズ」。作者のJ・K・ローリングが、満を持して発表した新作は、ファンタジーでも、児童文学でもなかった。イングランド西部の架空の都市を舞台にした、人びとの愚行と破滅の物語だった。ハリー的な世界を期待した読者は面食らったことだろう。

(亀井よし子訳、講談社・各1500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 読み始めると、ディケンズやブロンテ姉妹が描いた19世紀小説的な世界が繰り広げられていく。ある地域社会の、アクの強い構成メンバーひとりひとりの内面がえぐるように描かれていく。人間たちの愚かさ、醜さは19世紀とそう大きく変わってはいない。しかし、決定的な違いは、携帯電話とインターネットの存在だ。とりわけネットの瞬発的な力は、人びとの間に、強烈な毒素をまき散らす。

 考えてみると、ハリーも現実世界では「いじめられっ子」だった。でも、ホグワーツの魔法学校にいけば、優秀な生徒となり、勇躍「悪」との闘いに挑んでいくのである。現実世界での鬱屈や苦悩が深ければ深いほど、あちらの世界での爽快な活躍ぶりがひときわ心地よく感じられるのだった。

 J・K・ローリングが現実社会の過酷さを描いた新しい物語の中では、すべての登場人物が、誰一人としてホグワーツに行くことも、夢想することさえできない。差別、偏見、貧困、虐待、欲望、背信……人びとの軋轢(あつれき)と葛藤が頂点に達したとき、この田舎町の危うい調和も崩れていく。そして、人びとの多くは、自らの抱えている闇を直視し、そこから立ち直る道を模索していこうとする。だから、この作品を「魔法のないハリー・ポッター」と呼ぶのは、あながち間違いではない。

 この作品を読みながら、「ハリー」発表以前の作者を思い浮かべていた。シングルマザーで無一文になったJ・K・ローリングは、イギリスに帰り、鬱病にかかり、生活保護を受けながら「ハリー」を執筆したという。まさに、過酷な現実に直面していた。だから、これは、あの時代を決して忘れないという作者の万感の思いがこめられた「ハリー・ポッター前史」とも言うべき作品なのであろう。

(書評家 松田哲夫)

[日本経済新聞朝刊2013年1月13日付]

カジュアル・ベイカンシー 突然の空席 1

著者:J.K.ローリング.
出版:講談社
価格:1,575円(税込み)

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