香川・丸亀市本島 歴史遺産息づく 自治の島「塩飽大工」、各地で活躍

瀬戸内海の本州と四国が最も接近した海峡に浮かぶのが、大小28の島々からなる塩飽(しわく)諸島だ。潮流が早く複雑で、潮がわくように見えることからこの名で呼ばれるようになった、との説がある。荒波に育まれた高度な操船・造船技術が古くから知られた、塩飽の船乗りや大工たちの故郷を歩いた。

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塩飽諸島の中心、香川県丸亀市の本島は瀬戸大橋の西にある。島の東岸にたたずむと、眼前には瀬戸内に浮かぶ島々を連ねるように水平線と平行してつり橋が延び、潮風が心地よい。

塩飽諸島は戦国期には塩飽水軍、江戸期は海運業の拠点として栄えた。江戸幕府の御用船方も務め、咸臨(かんりん)丸が太平洋を横断した際に乗り組んだ水夫の7割を塩飽出身者が占めた。塩飽の大工は造船技術をベースに巧みな技を発揮し、「塩飽大工」と呼ばれて各地で宮大工などとして活躍したという。

笠島地区の道は細く、微妙に曲がり見通しが利かない

島の昔日の面影を、北東部にある笠島地区が今に伝える。海沿いの山あいに江戸後期~昭和初期の町家が100ほど軒を連ね、集落全体が重要伝統的建造物群に指定されている。「かつては造船や修理の拠点。建物の外壁などに船の部材が転用されています」。丸亀市教育委員会の冨田将友さんが説明してくれた。町なかを歩くと、小路が折れ曲がって見通しが利かない。東側の山頂に中世の城跡があり、その城下町だった名残とされる。

近世の塩飽を語る上で欠かせないのが、他に例のない自治制度「人名(にんみょう)制」だ。豊臣秀吉が天下統一の戦での塩飽水軍の働きを評価し、650人の船乗り(人名)に島々の自治を許したことに始まり、徳川幕府もこの制度を継承した。人名の代表として政務を担ったのが「年寄」。当初は4家の世襲だったが、18世紀末から3人を選挙で選ぶよう改められた。

島の中央に、年寄が交代で勤務した塩飽勤番所が国史跡として保存されている。建築は1798年(寛政10年)。現在は人名制に関する秀吉や徳川家康の朱印状(複製)をはじめ、咸臨丸乗組員の遺品など島の歴史を物語る多くの史料を展示している。「国史跡になった1970年(昭和45年)まで、市役所支所として現役だったんですよ」。史跡塩飽勤番所顕彰保存会長の吉田智彦さんが教えてくれた。

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