歩行や排尿などに障害が出る難治性の脊髄症「HAM」は長い間、原因ウイルス「HTLV―1」(成人T細胞白血病ウイルス)の感染者が多い九州や沖縄の風土病とされてきた。近年は関東や近畿などの大都市圏で発症者が増加。政府が全国的な対策に乗り出したが、専門医はまだ少なく、診療レベルにばらつきがあるなどの課題も多い。
「両足は常にしびれている。立つときに、足が突っ張るのが一番つらい」。鹿児島市の山下真由子さん(57)は膝を震わせながら、激痛に顔をゆがめた。
国は風土病と認識
発症は2000年。足に違和感があり、ハの字のように内股でしか歩けなくなった。病院を受診したところ、すぐに入院を勧められた。足は1週間で動かなくなり、05年ごろまで入院してリハビリを続けた。
現在は自宅で生活し、屋内ならつえを突いて何とか歩けるが、外出時は車いすを使う。手の力が入らず料理は難しい。転倒で肋骨を何度も折った。
母親もHAM患者で、成人T細胞白血病(ATL)を併発して亡くなった。山下さんの3人の子供のうち次女(30)と長男(23)はキャリア。「母乳感染だと思う。知っていたら母乳を与えなかったのに……」と涙を流し、「早く薬を開発してほしい」と願う。
HTLV―1を巡っては、旧厚生省の研究班が1990年度、母子感染について「全国一律の検査や対策は不要」と提言。鹿児島や沖縄などの西南日本に多い風土病で「放置しても感染者は自然に減少する」という意識が広がり、国の対応の遅れにつながった。
ところが08年度、約20年ぶりに実施された疫学調査により、全国の感染者は推計108万人で88~90年度の120万人から大きな変化がないことが判明した。地域別では九州が前回調査の50.9%から41.4%に減少した一方、関東17.3%(前回10.8%)、近畿20.3%(同17.0%)など大都市圏で増加した。
政府は10年、HTLV―1総合対策をつくり、妊婦検診での感染検査を始めたほか、関連疾患の研究補助金枠を設けた。しかし医療提供体制はまだ不十分だ。
新薬の開発進む
最近、歩行がほとんどできなくなってきたというNPO法人代表の菅付加代子さん(右)
(5日、鹿児島県霧島市)国に総合対策を求めてきた特定非営利活動法人(NPO法人)「日本からHTLVウイルスをなくす会」(鹿児島市)によると、HAMの専門外来はまだ全国で数カ所しかない。代表の菅付加代子さん(55)は「近くに専門医がいないため、悪化を食い止められない患者も多い」と話す。
鹿児島大難治ウイルス病態制御研究センター(鹿児島市)の出雲周二教授は「診療レベルにばらつきがあり、適切とは言えない治療がなされているケースもある」と指摘する。
HAMはステロイドやインターフェロンで脊髄の炎症を抑えるが、骨粗しょう症や糖尿病、全身倦怠(けんたい)感などの副作用を起こす恐れがある。
発症して数年で急速に進行する人もいれば、発症から20年以上経過しても、つえなしで歩ける人もいるなど、進行は個人によって大きく異なる。だが必要な時期に副作用を恐れてステロイドを使わなかったり、発症から十数年が経過し炎症がない患者にステロイドを使い続けたりする事例があるという。
症状の進行に応じた適切な治療が全国どこでも提供できるよう、出雲教授が代表を務める厚労省の研究班は今年度中に診療ガイドラインを作成する予定だ。
新薬の開発も進んでいる。関東で唯一のHAM専門外来を開く聖マリアンナ医科大難病治療研究センター(川崎市)の山野嘉久准教授は原因となる感染細胞を狙い撃ちする「分子標的薬」の特許を出願。来年度の治験開始を目指して準備を進めている。
「HAM患者は様々な医療機関に点在しているため情報が効率的に集約されていない」と山野准教授。厚労省研究班として、今年3月からインターネットで、発症の経過などの調査に協力してくれる患者を募集。10月初めまでに約370人を集めた。今後、治験の情報も提供する予定だ。
山野准教授は「先進国で患者が最も多いのは日本。治療薬の開発は日本の国際的な責任でもある」と話している。
■医療費助成なく、患者に重い負担
HAM患者が通院で週2回インターフェロン治療を受けた場合、平均で月4万円ほどかかる。HAMは難病に指定されているが、医療費の助成はない。介護が必要になっても、65歳未満に介護保険が適用される疾患に入っておらず、患者や家族の負担は重い。
厚生労働省は難病対策として重点的に原因究明を目指す130疾患などの研究費を助成。このうち治療が難しく医療費も高額になる56疾患は医療費の一部または全額を補助している。しかし予算に限りがあり、対象の追加は進んでいなかった。
同省は8月、医療費助成対象の拡大や見直しを視野に、年内にも難病対策を見直す考えを表明。現行の助成対象も含めた約500疾患について、患者数や診断基準の有無などを調査している。
「日本からHTLVウイルスをなくす会」代表の菅付加代子さんは「患者の少ない疾患は企業が治験をしない。国主導で研究を推進してほしい」と話している。
(広瀬洋平、平本信敬)
▼成人T細胞白血病ウイルス(HTLV―1)
白血球の一種であるTリンパ球に感染するウイルスで、HAMや成人T細胞白血病(ATL)を引き起こす。母乳や血液、性交渉などで感染し、1986年に輸血血液への安全検査が導入された。感染者(キャリア)がHAMになる確率は0.3%、ATLは4~5%。HAMは約3千人の患者がいると推計されている。ATLは年間約1千人が発症し、死亡率は高い。ともに治療法は確立していない。
日本では縄文時代以前から感染があったとされ、九州や沖縄に感染者が多い。先進国では日本に集中している。
[日本経済新聞夕刊2012年10月18日付]
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