哲学者キリスト フレデリック・ルノワール著イエスの時代の社会を再構成

2012/9/26

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のあの有名な大審問官との問答と、ヨハネ福音書のなかの井戸で水を汲(く)むサマリア人の女との会話。イエスが言葉を交わすこの2つのエピソードが、本書の焦点である。キリスト教の誕生から現代にいたる教会の歴史や神学論争、ヨーロッパの形成史にも十分なページを割いて、ふつうのキリスト教史としての体裁をとりながらも、本書は、この2つのエピソードを足がかりに、つぎのような思い切った主張をのべる。

(田島葉子訳、トランスビュー・2800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 イエスは、健康な人に限らず貧乏人も病人も、ユダヤ人に限らずサマリア人も異邦人も、すべての人びとが神に救われるべきであるとする《普遍救済主義》に立ち、《全人類を対象とする倫理を打ち立てた》。《人は皆兄弟であり、…平等である》。そして個人は、神を信じる限り、どこまでも自由である。だが教会は、この《キリストの哲学》を押し隠した。とりわけキリスト教がローマ帝国で特権的な地位をえてから、その傾向がひどくなった。教皇の提案で、異教徒を攻撃する軍隊を送ったり(十字軍)、異端や異教徒を処罰する宗教裁判所を設けたりした。そんな教会に抗して、イエスの哲学の原点に立ち返り、人間の自由と尊厳を取り戻そうとした運動こそが、人文主義(ユマニスム)であり、近代哲学である、と。

 イエスの非凡で特異なメッセージは、サマリアの女に対してイエスが《この山(サマリア教団の聖地ゲリジム山)でもエルサレムでもない所で、父なる神を礼拝する時が来る》とのべ、特定の教団に限定されない人類大の信仰共同体を提案している点にあらわれている。この教えに従い、現代にこそ《ユマニスムを再構築する必要》がある、と著者は言う。

 本書は、フランスのベストセラー。聖書学や考古学の最新の成果をもとに、イエスの時代の文化や社会を再構成し、キリスト教の見逃されてきたポイントを押さえていく。信仰の立場に十分配慮しつつも、神など信じられないという現代人も興味深く読めるよう、議論の進め方は合理的だ。翻訳も丁寧。キリスト教と現代社会を考えるのにお勧めである。

(東京工業大学教授 橋爪大三郎)

[日本経済新聞朝刊2012年9月23日付]

哲学者キリスト

著者:フレデリック ルノワール.
出版:トランスビュー
価格:2,940円(税込み)

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