未完のファシズム 片山杜秀著「20世紀の戦争」を冷静に論じる

2012/7/18

20世紀は戦争とともにあった。しかも、それは人類史上はじめて「世界大戦」の名を冠せられた戦いであった。戦争によって経済と社会のシステムは根本から変容し、国家はその本質を露呈する。戦争を考えることは、人文諸科学のあらゆる分野で、現在最もアクチュアルな課題である。しかし、ほとんどの思想家たちは戦争を正面から論じようとしない。近代の右翼思想を論じた著書を持つ著者は、そうした危険な課題に取り組む。おそらく著者は、心情的には「右翼」や「軍」に共感を抱いている。だが最後まで冷静に、なおかつ価値中立の態度を崩さず、現代の「新しい戦争」の諸相を論じてゆく。

 20世紀の戦争は、「物量戦で総力戦で長期戦で科学戦」となる。その未曽有の戦いを生き抜くためには、経済、政治、思想を一元的に集約した「総動員体制」の国家が構築されなければならない。しかしそれが可能なのは、工業的資源と人的資源に富んだ一部の「持てる国」のみである。第1次世界大戦をほとんど無傷で過ごすことができたこの国の中で、軍人たちはそうした事実に敏感だった。「持たざる国」日本が「持てる国」との世界戦争に突入した際、どのようにしたら生き残ることができるのか。小畑敏四郎ら「皇道派」は精神主義的な殲滅(せんめつ)戦を主張するとともにその範囲を限定する。石原莞爾ら「統制派」は現実主義的な持久戦を唱えながらも「世界最終戦争」という夢幻的なヴィジョンを掲げる。だが、天皇にのみ大権の行使を許し、「権力の分散化・多元化」が図られた明治憲法下では、総動員体制の国家、ファシズムは未完で終わる他なかった。

 結果として、そこにはただ純粋な戦争原理である、中柴末純が説く「玉砕」の哲学しか残らなかった。著者が「あとがき」で述べているように、視点がやや「陸軍」の動向に限られている。石原の思想は田中智学を介して宮澤賢治の文学につながり、中柴の思想は師である倫理学者吉田静致を介して西田幾多郎の哲学につながる。憲法と天皇の問題も含め、我々は今後も、このおぞましきものから視線を逸(そ)らすことはできない。

(文芸評論家 安藤礼二)

[日本経済新聞朝刊2012年7月15日付]

未完のファシズム: 「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

著者:片山 杜秀.
出版:新潮社
価格:1,575円(税込み)