母の遺産 水村美苗著「小説の力」めぐる知的な仕掛け

2012/5/1

老いと死とは古来変らぬ人間の苦悩の種だが、生命維持技術の発達した現代の高齢化社会は、そこに長期にわたる介護という問題を付け加えた。介護を引き受けるのはたいてい女性である。

(中央公論新社・1800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 主人公の五十歳代の女性は、母親の介護をしながら自分自身の老いとも向き合い、夫との離婚の危機にも直面する。肉体的にも心理的にもきつい日々が続く。

 本の帯には、「ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?」というショッキングなフレーズが記されている。幼い時から我の強い母親にふりまわされてきた彼女の内心をよぎる思いだ。介護に疲れた多くの女性の心を時折よぎる思いでもあるだろう。

 作者の体験も反映されているようだ。そのまま書けば重苦しいリアリズムの小説にもなっただろう。しかし、作者はここに知的な仕掛けをさりげなく施した。仕掛けの中心には「新聞小説」という副題がある。

 実は本作そのものが新聞に連載されたのだが、敢(あ)えてこの副題を付けた理由は他にもある。主人公の祖母が尾崎紅葉の新聞連載小説『金色夜叉』に読みふけり、「ヒロイン・お宮はこの私だ」と思い込んで、恋より「ダイヤモンド」を選んだお宮とは逆の人生を、フローベールの『ボヴァリー夫人』のような不倫の恋を、選んだ時から、祖母―母―娘(主人公)とつづく女三代の人生が決定づけられた、という設定である。

 新聞小説の普及は、小説が近代大衆の娯楽の中心になったことを示す。小説は読者の感情移入を促し、人生のモデルを提供し、現にある境遇の外に別の人生がありうることを教え、そうやって読者を教育し感化し、欲望をそそのかす。それが小説の、魅力的な、時には危険な、力である。

 主人公は母親の人生をあらためて思いやり、起源としての祖母の人生を考え、自分の結婚生活を反省し、新たな生き方を決断する。そして、母親の「死」を契機にした彼女の「再生」は、小説によって自分の人生を損なわれたと感じていた彼女が、小説の力をあらためて肯定することでもあった、というふうに読めるのである。

(文芸評論家 井口時男)

[日本経済新聞朝刊2012年4月29日付]

母の遺産―新聞小説

著者:水村 美苗.
出版:中央公論新社
価格:1,890円(税込み)


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