時は老いをいそぐ アントニオ・タブッキ著思い出の断片と一瞬のきらめき

2012/4/10付

アントニオ・タブッキは文学の大きな伝統を引きつつ常に先端にいた。『時は老いをいそぐ』を読んだ数日後に著者の訃報にふれた。長い闘病生活があったという。最後まで書いていたという。そうした交々(こもごも)に思いをはせながら再読した。ページに刻まれたさまざまな老いの姿がいっそう陰翳(いんえい)を深めた。

(和田忠彦訳、河出書房新社・2200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 9篇(へん)からなる短篇集である。登場人物たちはみな老境にあるか、老いが足音を忍ばせて近寄ってくる年ごろの人たちだ。おおよその年齢はわかるが、どんな来し方があったのか、どんな仕事をし、だれを愛し、だれを憎み、なにを裏切り、なにに裏切られてきたのか、そしてなぜ今そこにいるのか、そういったことは明記されていない。行と行のあわいに、男と女たちの枯れた溜息(ためいき)が微(かす)かに聞こえ、彼と彼女の過ぎ去った日々の苦い思い出の断片と、一瞬のきらめきが垣間見えるだけである。

 主な舞台は西欧ではない。ブダペスト、モスクワ、ワルシャワ、テル・アヴィヴ、クロアチアのビーチリゾート、ブカレスト、ギリシャのクレタ島の山……。ベルリンの壁崩壊で亀裂の入った時間と人々の暮らし。それらはひび割れて止まってしまった時計のように、しかし消えることなくじっとそこに在るのだ。

 ある篇では、何世代も集う親族の会食でポーランド語の詩が読まれ、その場面が回想の襞(ひだ)に畳まれたかと思うと、女は思い出の草原にいて馬たちに囲まれている。別な篇では、共産主義者の名をとった通りのりっぱな家に住み、夜ごと洒落(しゃれ)たパリ・バーに通う男がいる。男がその生活と引き換えにしたものはなんだったろう。また別な篇の浜辺で雲占いをする男は、そのリゾート地にかつてあった戦場でどんな経験をしたのか。最終篇では、60代の男がみずからの物語に捕(とら)えられ、虚構と現実のはざまに迷いこむ。男は本当にいたのか? 消えゆく旧(ふる)い街や暮らしのように、その存在は儚(はかな)い。

 幻影のような人々が足早に通りすぎる。その跡に浮かんでくるのは、おぼろながら心に深く根を張る記憶、私たち人間が共有する未来の老いの記憶なのだ。こんなに胸にしみる作品集は久しぶりだ。

(翻訳家 鴻巣友季子)

[日本経済新聞朝刊2012年4月8日付]

時は老いをいそぐ

著者:アントニオ・タブッキ.
出版:河出書房新社
価格:2,310円(税込み)