シス・カンパニー「ガラスの動物園」現代の閉塞感、重ね合わせ

胸しめつけられるテネシー・ウィリアムズの名作。それが長塚圭史の異色の演出で、不思議な幻想世界に変わった。戸惑う観客も多いだろうが、苦心の舞台にまずは現代の閉塞感を重ね見よう。

大恐慌でいためつけられた1930年代、セントルイスの物語だ。夫に家出された母アマンダは現実に疲れ、すさんでいる。その娘ローラは足が悪く、おそろしく内気で、ガラスの動物だけが心の友だ。弟のトムが夕食に招いた同僚のジムはローラのあこがれの人だったが、ガラス細工のような恋心は砕け散る。

左から立石凉子、深津絵里、瑛太(写真 谷古宇 正彦)

この舞台は狭い室内で進行するのがふつうだ。ところが、長塚演出ではガランとした大空間が現れる(二村周作美術)。人間はしらじらとした空間を漂う点景となるのだ。

奇妙なダンサーが現れては体をくねらせる。窓辺にたたずむ人の姿が超現実的だ。ドアからうごめく手だけが揺れるシーンもあり、舞台は奇怪なバロック絵画のように見えてくる。壊れた心からグロテスクな光景を導き出す長塚らしい、たくらみ。

注目される深津絵里のローラは内向性がひときわ強固で、目をひきつける。ただ淡い色に染まりがちなところは演じこみたい。母親の悪意とジムのみっともなさが強調されるのは悪意による包囲を印象づける狙いからか。

左から立石凉子、深津絵里、瑛太(写真 谷古宇 正彦)

この劇はローラの心が追憶を映す鏡となり、心理の激流となるところに妙味がある。その現代化は容易でない。手数ほど演出意図がきいてこないのは、セリフに埋め込まれた記憶の力が動かしがたいからだろう。立石凉子のアマンダが老練。ほかに瑛太、鈴木浩介。徐賀世子訳。4月3日まで、シアターコクーン。

(編集委員 内田洋一)

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