盛岡 新渡戸稲造「武士道」の源流を歩く

東北は古来、中央政権との戦いで負け続け、苦難の歴史をたどってきた。岩手県も、戊辰戦争で盛岡藩が新政府軍に敗れ、「賊軍」の汚名を着せられた屈辱をバネに多くの人材を輩出した。時勢におもねらない反骨の「武士道」の系譜に触れてみたいと、盛岡の街を歩いた。

◇            ◇

聖寿禅寺にある楢山佐渡の碑(右)と「盛岡藩士卒戊辰戦死之碑」

JR盛岡駅から西に向かって雫石川を渡ると、瓦屋根の盛岡市先人記念館が見えてくる。ここは明治期以降に活躍した郷土の偉人130人を紹介している。

目当ての人物は2階の片隅に小さく展示されていた。「悲運の盛岡藩家老、楢山佐渡(1831~69)」。戊辰戦争で、盛岡藩は力づくで服従を迫る新政府軍に反発し、奥羽越列藩同盟に加わって敗北。戦いを指揮した楢山は藩の責任を一身に背負って刑死した。

「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道」

楢山の辞世の歌は今も地元で語り継がれている。学芸員の田崎農巳さん(36)は「楢山の死が明治以降の岩手の苦難の出発を決定づけた」と話す。

次に1階の新渡戸稲造(1862~1933)の豪華な記念室に入った。巨大な世界地図のレプリカの前に、1900年に出版された「武士道」の初版本が飾られている。序文には「我が愛する叔父、太田時敏にこの小著をささぐ」と記されている。

藩の勘定奉行だった父と5歳で死別した新渡戸は一時、戊辰戦争を戦った太田の養子となり、楢山ら盛岡藩士の生き様を教え込まれた。「武士道」には盛岡藩に関する直接的な記述はない。しかし田崎さんは楢山と新渡戸に通じる理念に「ノブレスオブリージュ」(高い身分に伴う責任・義務)を挙げて「楢山ほど、これを体現した人はいない。新渡戸にも大きな影響を与えたはず」と言う。

先人記念館から約15分歩いて「原敬記念館」へ。藩家老の家に生まれた原敬(1856~1921)は、薩摩・長州の藩閥政治と闘って政党政治を確立した。膨大な日記とともに、多くの俳句も残した原の俳号は「一山」。薩長の権力者が東北を蔑んだ「白河以北一山百文」の言葉からあえて取った。

楢山が報恩寺で処刑された1869年6月23日、原は泣きながら寺の周りを歩いたという。約半世紀後の1917年、同じ報恩寺で戊辰戦争殉難者五十年祭が行われた。原は祭文で「国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦争は政見の異同のみ」と訴え「旧藩の一人、原敬」と結んだ。それは賊軍とされた屈辱の歴史への決別宣言だった。

記念館には原が暗殺された時に着ていた洋服の隣に、五十年祭を終えた感慨を詠んだ句の掛け軸が飾られている。報恩寺は本堂が焼失するなど、当時をしのぶ史跡はなく、今は杉木立が残るだけだ。

注目記事