フード・レストラン

おでかけナビ

福岡・熊本 三池炭鉱 今も残る産業遺構、炭都が燃えた季節

2011/9/7 日本経済新聞 夕刊

日本の近代化を支えた石炭。中でも九州・三池炭鉱は有数の出炭量を誇り、“炭都”と呼ばれた。1997年に閉山されたものの、明治から大正、昭和、平成と4つの時代をまたいだ産業遺構が今も残っている。

◇            ◇

トンネルの先に地下へ続くケージの乗降場所があった

国道208号から県道に折れると交通量はぐっと減る。市街地を抜けると、鉄骨やぐらと赤れんが造りの建物が立つ広大な敷地に行き着いた。三池炭鉱万田坑跡だ。三池炭鉱の採炭場は1カ所ではない。福岡県大牟田市と熊本県荒尾市の両市に、地下の石炭層に続く坑口をいくつも掘った。1902年開坑の万田坑もその一つ。閉山後、荒尾市が買い取り、2010年4月に一般公開を始めた。

ボランティアガイドの山元信幸さん(68)の案内で敷地に入る。広さは約2万平方メートル、甲子園球場のおよそ1.5倍だ。「このあたりの石炭層は深さ約270メートル。地下まで続く2本の縦穴を掘った」。最盛期は昭和初期。約3500人が働き、平均で年間86万トンの石炭を掘り出した。

ボイラー場や地下水をくみ出すポンプ場、選炭場、石炭を運ぶ鉄道施設など10を超える建造物が立ち並んでいたという。多くは解体されたが、入坑前に安全を祈願した「山ノ神祭祀(さいし)施設」や共同浴場など一部施設が今も残る。

当時の様子を今に伝えるのは高さ19メートルの鉄骨やぐらだ。間近で見上げると迫力満点。100年以上前の建造物とは思えない力強さ。やぐらは地上と地下を行き来する昇降装置の名残。坑内作業員はやぐらにつるしたケージに乗って地下に潜った。やぐらの真下にあった縦穴は安全対策のために埋められ、今はない。山元さんは「縦横に掘りめぐらされた地下の坑道は今、地下水で満たされている」と話す。

伝承によると、三池で石炭が発見されたのは1469年。農民がたき火をした際、山肌で“燃える石”を偶然見つけた。江戸時代には三池藩が採炭し、瓦焼きや製塩の燃料として瀬戸内などに運んだ。明治に入り、しばらくは官営だったが、1889年(明治22年)に三井財閥が経営を引き継ぎ、急速に発展した。

その功労者が米マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ団琢磨だ。先端技術を導入し勝立坑や宮原坑、万田坑など採炭場を次々と開く一方、石炭積み出しのため三池港を整備した。

当時の栄華は旧三井港倶楽部にうかがえる。国内外の賓客をもてなすために1908年(明治41年)に迎賓館としてオープン。とんがり屋根の白い瀟洒(しょうしゃ)な洋館は現在そのままレストランとなっている。

フード・レストラン 新着記事

ALL CHANNEL