滋賀・大津 瀬田の唐橋、決戦の証人

壬申(じんしん)の乱から本能寺の変まで、数々の決戦の舞台となり、日本の歴史が動く瞬間をつぶさに見てきた橋がある。滋賀県大津市の瀬田川にかかる「瀬田の唐橋(からはし)」だ。古来「唐橋を制する者は天下を制する」といわれた交通・軍事の要衝。焼失や破壊を繰り返す一方、近江八景の1つ「瀬田の夕照(せきしょう)」の題材になるなど、日本三大名橋に名を連ねる景勝の地でもある。

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唐橋の呼び名は平安時代から。「からみ橋がなまった」など諸説ある

瀬田の唐橋は、琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川の最上流域(琵琶湖と瀬田川の境界付近)に架かる。現在、この地域には唐橋を含めて計6本の幹線が通るが、古くは瀬田川に架かる橋は唐橋しかなく、京都と東国を行き来するには必ずここを渡らなければならなかった。一大戦略拠点だった唐橋は何度も焼かれ壊されたが、その都度再建された。橋の位置を現在の場所に定めたのは織田信長だ。

現在の唐橋は1979年に架け替えられた鉄骨コンクリート製で全長約223メートル、幅12メートル。地域の生活道路として人や車の往来が増え、渋滞もしょっちゅうだ。

実際に歩いてみると、高欄にはさびも目立ち、来年には「唐茶」を基調にした色に塗り替えられる予定だが、かつての木造の風情を求めるのはさすがに無理がある。観光客の中には唐橋の前で「唐橋はどこですか」と尋ねる人も少なくないという。

しかし、緩やかな反りを持つアーチ状の橋の形は往時の面影をとどめ、旧橋の擬宝珠(ぎぼし)がそのまま飾られている高欄も昔日の風格を感じさせる。

唐橋が歴史の舞台に最初に登場するのは天智天皇没後の672年に起きた壬申の乱。皇位継承を巡って大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟、後の天武天皇)が戦った古代日本最大の内乱で、唐橋はその最後で最大の決戦場となった。大友軍と大海人軍は唐橋を挟んで対峙。激闘の末、唐橋を制した大海人軍が勝利し、敗れた大友皇子は近傍で自害した。

戦いの様子は日本書紀に詳しく描かれているが、興味深いのはその記述ぶりだ。書紀は漢文・編年体による日本最古の勅撰(ちょくせん)歴史書で、大半は叙述的で抑揚のない記述だが、壬申の乱のくだりだけはなぜか妙に生々しく描かれている。

野洲図書館長で唐橋の歴史に詳しい千歳則雄さんは「特に唐橋の攻防の箇所は躍動感あふれる実にドラマチックな記述で、異彩を放っている。皇位継承の正統性を強調したかったと同時に、戦いがいかに激しかったかを物語っている」と言う。