俳優 市村正親さん 演じること炎の如く(3)滝沢修さんの演技を見て役者を決心

 高校卒業後、舞台芸術学院に入った。プロの俳優を目指して脇目もふらず、精進を続けた。
舞台芸術学院の試演会で舞台に立つ

将来の自分の職業は役者だと体全体で実感したのが、高校時代、劇団民芸の「オットーと呼ばれる日本人」の滝沢修さんの演技を見た時。たかが2、3時間の間にこんな激しい人生を生きられるなんてすごい、役者になりたいと決心したんです。父に言うと、「お前は何をやっても三日坊主だからな」と取り合わない。けれども僕は「三日坊主だから気持ちがすぐ切り替わる。だからいろいろな人を演じる役者がつとまるんだ」と言い返しました。

高校を出て演劇をやるには、誰かの付き人になるのが手っ取り早いと思った。ハナ肇さん、青島幸男さんらの住所を調べて、直接、家を訪ねたが玄関払い。

そんな時に青春テレビドラマに出演しておられた歌舞伎俳優の八代目市川中車さんと話をする機会があり、「家に遊びにきなさい」とおっしゃってくれた。ご自宅はイチョウ並木がきれいな神宮の絵画館の近くにありました。「俳優になるには、箸(はし)の持ち方など、いろいろ習わなくちゃいけないことがある」とアドバイスをいただいた。芸術座で歌舞伎に出ておられたので見に行ったが、吉良上野介がよく似合う存在感のある役者でした。

中車さんに言われて、演劇をきちんと学ぶにはどこがいいのか考えてみた。有名な俳優座養成所はピカピカ輝きすぎていて無理かなと思った。池袋にあったのが舞台芸術学院(舞芸)です。演劇部の顧問をしていた茨木先生も舞芸で演劇を習っていた。このころミュージカル科はなく、入ったのは演劇科。入学式前日にナベ、カマ、布団を持って学校近くの3畳一間の下宿に転がり込みました。

舞芸の第19期生で同期は52人いた。学長が「月謝というのは他の人が自分のために払ってくれているくらいの意識で、この学校を活用しなさい」というようなことを言った。とにかく3年間、一日も休みませんでした。沖縄返還やベトナム平和運動のベ平連のデモに誘われても、けいこ場で授業を受けていた。卒業するころには、同期生は18人に減っていました。

 舞台芸術学院卒業後、いぶし銀の演技で知られた俳優、西村晃の付き人となった。芝居や映画、テレビの制作現場を肌で体感した。

舞芸2年生の夏休みのアルバイトで西村晃さんが付き人を探しているという話を友達が持って来てくれました。野坂昭如作「聖スブやん」(1968年)というミュージカルをいずみたく作曲、西村晃主演でやるという。けいこは3週間ほどだったが、プロの現場に首を突っ込んだなという気がしましたね。こんな縁があって舞芸卒業後、西村さんに「手伝ってみないか」と声をかけていただき、正式に付き人になった。小道具を用意したり、お茶を運んだり、師匠の身の回りをいろいろ世話する。

とちりもやりました。ズボンのポケットにバラの造花を仕込むのを忘れた。西村さんが取り出しながら「花も実もある……」というセリフを言うはずが、いくらズボンをまさぐっても何も出てこない。西村さんは、そ知らぬふりで演技を続けた。後で謝りましたが、特に怒るということはなかった。西村さんはユーモアのある人で、鼻歌をよく歌っていましたね。

付き人をしていて、とにかく芝居や映画の現場を生で見ることができたのは大きかった。三木のり平さん、小沢昭一さん、三国連太郎さん、萬屋錦之介さん、森雅之さんら有名な俳優の生きざまをじかに見て、一流の役者の振る舞いや言動がどうあるべきか学びましたね。楽屋のれんの中と外で、まったく違う役者になってはいけないなどとも教わった。スタッフへの気配りなど芝居をつくっていく上で大事なことを学びました。

「石の上にも三年」。付き人には師匠が第一ですが、24歳になり自分を第一に考えてみたくなった。西村さんに手紙を書いたら「分かった」という返事があった。奥様は「役者の正道を歩みなさい」とおっしゃってくれた。テレビか映画か舞台か思案したが、自分には生の舞台の魅力が忘れられず、舞台の道を探すことにしました。

(聞き手は編集委員 河野孝)

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