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俳優 市村正親さん 演じること炎の如く(2)高校時代に芝居を経験、面白さに目覚める

2010/6/9

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 1949年、埼玉県川越市生まれ。両親には仕事があり、一人っ子のさびしさから人を楽しませる芝居心が宿った。
小学校時代、遠足で

子供のころから演じるのが好きだったようです。川越の秋の山車祭りで、3歳のころから「テンテンツクツク」というおはやしを聞くと腰をひいたり回したり、体を動かしていた。太鼓や笛の音がにぎやかで、その中に入って一緒に踊りたいなとあこがれていた。

母は居酒屋をやっていた。カウンターの上で幼児の私が山車祭りの白虎をまねて踊ると、お客さんが時折おひねりとして10円をくれる。これが僕の小遣い稼ぎになった。今、自分が子供を持つようになって、息子が僕のステージのDVDを見て歌を歌ったり、踊ったりまねる。自分の子供のころも、こうだったのかと想像します。

父はローカル紙「武州新報」を主宰していた。自分で取材し、広告をとり、2カ月に1回のペースで出していた。部数は9千部くらい。農家の長男だったが家を継がず、戦争から戻ってきて、人に縛られるのがいやで、いろんな商売をやった末、新聞で自分の表現方法を見つけたんですね。

兄弟がいないから近所の子と遊んでいて、周りの人たちを気持ち良くすると、自分自身も気持ち良くなる。周りが喜んでくれることを何かやれば、自分がさみしい思いをしなくて済む。子供心にそう感じていました。

居酒屋の目の前が映画館で、フリーパスで入れた。100メートルほどの距離の中に青果店、精肉店、電気店、洋品店、割烹(かっぽう)、理容店などいろいろな店があった。まさに「三丁目の夕日」で描かれる世界です。通りをいろんな人たちが行き来する。子供の遊び場としてとても優雅で、人間観察ではないが、こうした人々を眺めて過ごすのが好きでしたね。

中学校は先輩の誘いで柔道部に入りました。投げやすいといって、乱取りけいこでは投げられるのが気持ち良く、よく投げられていた。肌と肌をふれあって取っ組み合っていると、兄弟げんかをしているような、じゃれあっているような感覚が良かった。

 川越商業高等学校に進んだ。体を動かすのが好きだったが、舞台で演じる面白さを体験、演劇を志すようになった。

高校に進み、体操部に入りました。逆立ちやトンボを切ってみたいという単純な理由だった。しかし、マットで跳んだりはねたりするのはいいが、器械体操は、つり輪、あん馬、平行棒とか種目も多く、あんなに力の要る競技とは思わなかった。

2年生の時、バック宙で首から落ちて3カ月ほど入院、体操には前ほど夢中になれなくなりました。3年生を送る会を手伝ってくれと言われて、声と動きに分かれた芝居をして、とても面白かった。演劇部の顧問をしていた茨木洋子先生が、「お芝居、好きなのね。入ってやってみたら」と声をかけてくれて演劇部に入ったら、がぜん面白くなってきた。茨木先生は今もお元気で、何年か前、NHKの「旅するラジオ」で川越が取り上げられた時、対面しました。

演劇部は10人くらいいたが、男は1人だった。部活動だけでは足りないと、赤羽にある「新日本児童」という学校に、授業が終わってから通った。面白いと思ったからこそ、突き進んでいけました。

日活映画にも出たことがある。西郷輝彦、松原智恵子出演の作品で、松原さんの弟の学校の友人という役だ。ロケで信州の松本に行った。日活スタジオに行くと、水の江滝子、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、浜田光夫……とテレビや映画で見る人たちがたくさんいた。当然のことだが、間近でスターを見るのは新鮮だったですね。

高校に真山美保さんが主宰していた新制作座の公演がやってきた。舞台は体育館。プロの舞台づくりを目の前で見られるとわくわくして、朝から手伝いに行き荷物を運びました。八王子に劇団の拠点があるというので見に行った。みんなが一緒に生活しており、映画を見られる場所もあってソフィア・ローレンの映画「河の女」などを見た。演劇をやる意義について「悲惨な状況をつくらないためにも演劇は大事だ」と美保さんが言われたのを覚えています。

(聞き手は編集委員 河野孝)

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