みすゞ生きた慈愛の町山口・仙崎  鯨や魚の法要 今なお

山口県・仙崎、青海島は古式捕鯨基地として知られる。童謡詩人の金子みすゞのふるさとでもある。昔も今も鯨の供養を続ける信仰心厚い風土が優しさ、慈しみにあふれたみすゞの詩の原点だ。地域の助け合い、伝統の継承など、失われつつある「日本の心」を再発見する旅だった。

金子文英堂跡地にできた金子みすゞ記念館
みすゞが「まるで龍宮みたい」とうたった仙崎の町

本州の西端近く、青海島に守られるようにたたずむ漁師町、仙崎はみすゞが20歳まで育った町だ。ひなびた無人駅から北に約1キロ続くのがみすゞ通り。八百屋、角の乾物屋、馬つなぎ場など詩に登場する舞台や詩碑がいたるところでみられる。

幼少期を過ごした書店、金子文英堂跡地にある金子みすゞ記念館に立ち寄った。「傷ついた心が癒やされました」。置かれたノートにはこんな感想が目立つ。みすゞが残した512編は感性の宝庫だ。平易な言葉で様々な命への慈しみ、優しさがつづられている。

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みすゞは西条八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と称賛されながら26歳の若さで自らの命を絶った。その作品の原点はどこにあるのか。「私は青海島の鯨墓だと思います」。金子みすゞ顕彰会事務局長の草場睦弘さん(67)の勧めでボランティアガイドの上田義人さん(78)と青海島の通(かよい)地区に向かった。

わが国の古式捕鯨基地である通地区の歴史は古い。1673年ごろには長州藩から鯨組が認められた。地元に繁栄をもたらす半面、母鯨の胎内から出てきた赤ちゃん鯨の姿をみるにつけ、住民たちはいたたまれない気持ちになった。

1692年に清月庵の高台に胎児たちがふるさとの海を望めるよう鯨墓を建てる。捕った鯨には1頭1頭に戒名をつけた。向岸寺には「鯨鯢過去帳」と鯨位牌(いはい)があるが世界に例を見ないものだ。

さらに古式捕鯨が姿を消して100余年たったが、1679年から向岸寺で始まった鯨の法要は今も連綿と続いている。みすゞの父はこの通地区の出身。幼いころから鯨の話を聞いて育ったに違いない。

「鯨法会は春のくれ、海にとびうおとれるころ。/(中略)/おきでくじらの子がひとり、その鳴るかねをききながら、/死んだ父さま、母さまを、こいし、こいしとないてます」(「鯨法会」)。鯨への哀悼の念がじんと伝わってくる。

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長門市くじら資料館の早川義勝館長(69)の家系は代々、鯨組の網頭をつとめてきた。「通地区では鯨が捕れると鯨組とは関係がない家にもおすそわけした。そうした助け合いの伝統は続いています」と語る。今でも夜間、家の鍵をかける習慣はないという。

みんなが集まると飛び出すのが通鯨唄(うた)。手拍子はなく、両手をすりあわせながら歌う。「鯨への哀悼と尊敬の意をこめています。この伝統文化は守り続けたい」と通鯨唄保存会会員の早川館長は地元の小学校での指導に余念がない。

通地区からの帰途、高台にある王子山から仙崎の町をながめた。「木の間に光る銀の海、わたしの町はそのなかに、龍宮みたいに浮かんでる」(「王子山」)とみすゞがうたったように本当に小さくてかわいい町だ。その狭い地域になんと寺が6つ。通地区だけでなく、仙崎でも寺で魚の法要を行っている。

住民たちの信仰心は厚く、海の恵みへの感謝の気持ちを忘れない。地域の助け合いや伝統の継承もごく自然に行われている。別れる際、上田さんの言葉が強く印象に残った。「訪れた人たちはみすゞさんの詩に感激されますが、私たちには当たり前の感覚ですよ」

(編集委員 芦田富雄)

[日本経済新聞夕刊4月21日付]

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